情報化にともなう労働過程の変容

――A鈑金にみるFS型企業の合理化戦略――

(所収:伊藤誠・岡本義行編著『情報革命と市場経済システム』富士通ブックス、1996年)

目次
1 はじめに
2 A鈑金の概要:FS型企業としてのA鈑金
3 A鈑金の生産システムの歴史
4 結論

1 はじめに

 技術革新が労働に与える影響については様々な評価が与えられている。とりわけコンピュータ・テクノロジーを用いたNC工作機械が労働の非熟練化をもたらすのか、それとも再熟練化するのかに関しては議論の分かれるところである1 。例えば、D・F・ノーブルはNC工作機械の誕生の背景を丹念に追い、当時NCとは異なる工作機械の自動化の可能性があったにもかかわらず、NC技術が選択された経緯を明らかにして、そこにあくまでも労働者の熟練の解体を目的とする資本の意図を読みとっている(Noble[1979]) 。他方、L・ヒルシュホーンはこれまでのメカニカルな生産技術からコンピュータ制御によるサイバネティックな生産技術への転換点としてとらえ、サイバネティックな生産技術において人間の労働はフィードバック機能をはたし、それによって学習能力を持った新しい熟練労働者が生み出されると論じている(Hirshhorn[1984])。
 さて、ピオリ=セーブルの唱えた「柔軟な専門化(以下、FSと略す)」論は新しい市場環境のもとで、「規模の経済」に基づくこれまでの大量生産体制から、「範囲の経済」に基づくクラフト的生産体制への移行を論じている(Piore and Sabel[1984])。それによると、嗜好の多様化に基づく一製品の市場規模の収縮は、コストの削減を製品・生産の標準化によって達成しようとする大量生産体制を危機に陥れる。彼らはそのオルタナティヴとして、大量生産体制の周辺部で生き残ってきたクラフト的生産を提示するのである。それは嗜好の変化の激しい需要に対して生産を機敏に切り替えることによって対応する。また頻繁な製品の切り替えや新しい製品の開発・生産には高度な技術に基づく他の加工業者との密接な関係を必要とする。ここに、技術に基づくネットワーク型の生産を見出しているのである。
 同じことは労働者との関係についてもいえる。ピオリ=セーブルによると、大量生産が労働力の非熟練化をめざす専用機械の導入を進めるのに対して、クラフト的生産では製品の迅速な切り替えを前提とするために、汎用機を用いた機械化が進められる。この機械化は、専用機械化が労働者の熟練を剥奪するのとは異なり、労働者の熟練を必要とする機械化であるとする(ibid., 訳 62頁)。汎用機の操作や頻繁な段取り替えは労働者の熟練に依存しなければならない。そして、現代においてその可能性をもたらしているのがコンピュータ・テクノロジーを用いたNC工作機械であると考えている。むしろピオリ=セーブルは、コンピュータを用いた新しいテクノロジーが「多くの場合、人間の技能を代替するのではなく、むしろそれを拡大する」(ibid.)ことを前提として、FS論を唱道してきたのである。
 ここでは日本においてFS論の文脈で取り上げられてきた東京都大田区の金属機械産業の事例を扱う2 。大田区の金属機械産業は、中小零細企業を中心に金属加工のあらゆる生産機能を備えてきた(関・加藤〔 一九九〇〕)。系列型の下請けとは異なり、大田区の中小零細企業は独自の技術力を基にした水平的なネットワークを構築し、首都圏に立地する大企業の試作開発・研究部門で必要とされる一品物や特殊な部品・機械を製造し、二度の石油危機、円高不況の中でその強さを誇ってきた 。
 この大田区において積極的にネットワークを構築しているA鈑金の機械化の事例を取り上げ、ピオリ=セーブルが主張するように、はたしてFS型企業は積極的に労働者の熟練を重視し、積極的に活用する戦略をとっているのかを検討してみよう3 。結論を先に述べておくなら、A鈑金はFS型の企業であると規定できるにもかかわらず、熟練を解体する方向で機械化・自動化を図っていることが確認できる。またコンピュータ・テクノロジーは単に熟練を解体する方向で用いられているだけでなく、組織的にも企業による労働者の統合をより強権的に行う基盤を準備していることが理解できるであろう。すなわち労働過程の情報化戦略がここでは見逃すことのできない論点となる。

2 A鈑金の概要:FS型企業としてのA鈑金

 鈑金(または板金)とは鋼板に対して切断・穿孔・曲げなどの加工を行い、機械装置の筺体やシャーシを製作することをいう。現在、A鈑金の従業員数はパート労働者を含めて二七名(うち茨城工場一三名)、資本金は一千万円で、現在、東京と茨城に工場があり、試作や一品もののような小ロットの製品は東京工場で、比較的ロットが大きく量産品的なものは茨城工場で生産している。生産の比率は、茨城六割東京四割となっている。一九六八年以降の売上高、減価償却費、経常利益は図8-1のように推移している
 A鈑金は、鈑金加工業でありながら、現在では「提案型企業」として自らを位置づけ、小ロットの製品では箱物の設計から組立に至るまでのすべて(電気まわりを除く)にわたる「トータルな生産システムを確立」し、「多品種極少量生産」を志向しているという。受注の多くは、試作品などの一品物や小ロット製品が多く、大企業の「FMS(Flexible Manufacturing System)にのらない仕事」がほとんどである。
 受注から納品までの工程は、顧客との仕様打ち合わせ、図面作成に始まり、自動プログラミング、精密板金加工、検査、二次工程(メッキ、塗装、精密機械加工、成形、シルク印刷)を経て、組立、検査、梱包、出荷に至る。従来の鈑金加工業では板金加工とそれに付随する検査しか受け持っていなかった。しかし、A鈑金では、設計から組立までのすべてを一括受注することによって、従来型の下請け企業から脱却し、提案型の企業へと展開してきたのである。
 当然、A鈑金がこのすべての加工機能を受け持っているわけではない。小ロットの受注が多いため、二次工程の多くは内製化することができず、他の企業に発注しネットワークを築いている。経営者によると、このネットワークは大田区内、それも「半径二キロの円内」に立地している他の加工業者で形成されている。この結びつきを支えているのは「技術」であり、同じ加工機能業者の中でも必要とされる分野の技術の強い企業を、そのとき時に選んで発注している。A鈑金が技術を重要な要素として考えていることは、後継者のない企業は技術力の高度化がなされないので、取引しないということからもうかがえる。また、地域のK工業協同組合で月二回開かれているM会という研究会が人的なつながりを支え、このネットワークを強化している。A鈑金では、受注から納入までを二日でこなす体制をとっているが、これを支えているのがこうした技術を媒介としたネットワークなのである。
 以上で見てきたように、A鈑金は「多品種極少量生産」を志向することによってニッチ市場を確保をしている。そしてこれを可能としている背景には大田区の機械金属産業の高度な集積と、それに付随する産業コミュニティーがある。同規模の他の加工機能業者との技術に基づくネットワークを作り出すことによって、変化の激しい需要に応えることができているのである。こうした意味で、A鈑金はFS型企業の先進的事例とすることができるのである。

3 A鈑金の生産システムの歴史

 A鈑金の歴史は一九二五年に先々代が四谷で銅細工を行うA銅工場を創業したことに始まる。一九三〇年に芝区三田に移転し東京機械製作所の印刷機械関係の鈑金加工に転じている。一九四五年には大井鈴ヶ森に移転し、そこで戦災に遭い終戦を迎える。戦後は東品川で再建され、東京機械製作所の他にオオタ自動車、黒沢商店(事務機)などの仕事に従事している(関・加藤〔一九九〇〕)4 。現在地に移ってきたのは一九四九年で、一九五二年には資本金五〇万円の株式会社に改組している。現在のようなネットワーク型企業への転身を図るのは現経営者が工場長となった第一次石油危機以降である。
 ここでは、合理化よる生産形態の変化に関するA鈑金自身のシェーマ(図8-2)に従って、第一次石油危機以前の生産形態から現在の生産形態までの変遷を三つの時期に分けて考察することにする。第一期は「熟練縦流し生産」を行っていた一九七六年までで、この二年前から現経営者が工場長になって、NC機械の導入を手始めとする合理化が試みられている。第二期は「専門熟練横割生産方式」が始まる七六年から八九年までで、八九年は茨城工場の稼働開始と現経営者の社長就任という年でもあった。第三期は八九年以降から現在までであるが、この間、茨城工場と東京工場の分業体制に基づき、東京工場で「チャレンジ1/2」という新しい合理化が始まっている。以下、それぞれの期間を考察していこう。

第一期 万能型熟練生産

 A鈑金によると、当時の生産は「熟練工縦流し生産」で、主に手加工で鈑金を行っていた。生産組織の形態としては親方請負制をとっていた。親方と呼ばれる熟練労働者に何人かの先手(さきて)と呼ばれる労働者がつく。生産の指示は親方に図面を渡して、後は親方に請け負わせるという形をとっていた。加工ノウハウも親方が保有しており、それを先手は習ったり、まねすることで身につける。「縦流し」の意味は1つの製品の生産は、その図面を受け取った親方がすべての作業を自分と自分の先手でこなすことを意味している。A鈑金ではこれを「多能工」とカテゴライズしているが、後述するように、これはトヨタ生産方式でいわれている「多能工」の意味とは異なり、むしろ万能型の熟練を意味している。賃金の形態も、親方が一括してそれを受け取りそれを先手に分配するという方式であったという5
 この時期の生産組織の特徴は、(1)熟練は万能型の熟練で、あらゆる作業をこなすことができる親方が掌握している、(2)そのために経営者が生産工程、生産の進捗状況を把握できない、(3)賃金も請負型であり、先手の賃金は親方が一括して受け取るために、賃金の合理化がおよびにくいということである。従って、生産に関するあらゆる局面を親方が掌握しているという意味で親方支配型の生産組織であったということがいえる。
 この当時の取引先は2社に固定しており、業績推移(図8-1)からも見て取れるように売り上げも利益もほぼ一定で、横這いを続けていた。生産現場を親方が掌握したままでは生産の合理化・機械化も進まず、従って利益率も高めることができない。利益の下方安定で満足できないのなら、親方支配型の生産システムから脱却することが必要である。「言うことを聞かない」親方から生産過程に対する権限を剥奪し、合理化を進める必要がある。また熟練工の独立も多く、熟練工を確保するのが難しくなってきた。こうした事情が第二期を準備することになったといえる。要するに、第二期は熟練依存型からの生産体制から熟練解体型6 の生産体制をめざすことになる。
 A鈑金でこうした方針へと転換された背景には、現経営者のキャリアの問題も大きく絡んでいるであろう。現在の経営者は先代の経営者の娘婿として一九六九年に入社するが、工業校卒業後、大手のN電気に勤務していた。社内恋愛の後、結婚するが、A鈑金を継ぐことを義父から結婚の条件にされた。「N電気での今後の待遇も見えていた」こともあって、現経営者は「小さくても自分の思うようにやれるのはよい」と思い、N電気を辞めて、A鈑金に入ることにしたという。従って、現経営者は大企業流の生産管理手法、生産組織を体験しており、旧態依然としたA鈑金の生産組織には満足できずに、それからの脱却を考えたのではなかろうか。つまり、A鈑金が利益の下方安定に満足できなくなった要因には、熟練→独立というかつての大田区に多くみられたキャリアとは異なった現経営者のキャリアが重要な意味を持っていると考えられるのである7

第二期 万能型熟練の解体

 第二期は、現経営者が工場長となった一九七四年から始まる。この年は、第一次石油危機の年でもあるが、現在A鈑金では「機械化元年」として位置づけられ、旧西ドイツ製のNCパンチングマシーン(四三〇〇万円)を導入している。この時期、大田区でNC工作機械を導入している企業はほとんどなかった。だが、この機械は「当時最も先鋭的なものであったが、十分使いこなすことができず、期待するような成果を得ることはできなかった」(関・加藤〔一九九〇〕六八頁)。一台だけ先鋭的な機械を入れても効率的な生産はできないことがわかり、それ以後毎年のように機械化を進めていく。七五年にシャー(剪断機)、七六年、七八年にベンダー、七九年にトリミングシャーを導入し、八一年にNCターレットパンチングプレスを導入してからやっと事態は好転していく。機械化で可能になった精密鈑金をうりにして、受注先の拡大をはかるのもこの頃である。ここで確認しておくべきことは、この受注先の拡大を可能にした機械化・自動化が、万能型の熟練労働者を排除する方向で進められているという点である。
 上記の自動化機械を効果的に運用可能にしたのは、コンピュータによる加工ノウハウの集中管理である。それまでは親方が図面を読んでいたのを、図面をコンピューターでプログラミングすることによって生産を自動化するのである。この過程も最初は人がこなしていたが、一九八〇年には自動プログラミング作成機を導入して人は数値を入れるだけになった。これと同時に一度作られたプログラムを初期には紙テープで、後には磁気テープ(現在はフロッピー)で保存し、図面管理を徹底していった。これは一方で、「図面管理の徹底で多品種少量生産に即応できる体制」(関・加藤〔1990〕六九頁)をもたらし、それによって受注先の拡大にも応えることを可能にしてきた。他方で、図面管理やプログラミングの管理は工場長がもっぱら行い、現場労働者はそれにはタッチしていない。この意味で、「構想と実行の分離」(Braverman[1972])型の合理化が推進されていることができる8
 こうした機械化による万能型熟練の解体はA鈑金自身の生産形態の変化のシェーマ中でも「熟練工縦流し生産」から「専門熟練工横割生産方式(単能工)」へと位置づけられている(図8-2参照)。後者は「専門」と名付けられているとおり、機械化を背景に、それまでの万能熟練工を排除して、一台の機械に一人割り当ている。手加工鈑金から半機械鈑金への移行は、それまで必要とされてきた熟練が全く別の技能を必要とする労働に代替されるという意味で、手加工鈑金の熟練の陳腐化を意味している。事実、この機械化は万能熟練型の労働者との摩擦を引き起こし、NC機械の導入によって「俺の仕事をこの機械にやらせるつもりだろう」などと言って熟練労働者が辞めていった。退社した層は入社後二〜三年の中途採用労働者が中心であった。また、一九七六年に未経験者の採用、七八年に「女子パートの戦力化」(生産部門に女子パートを充用すること)が始められていることは、熟練の陳腐化だけにとどまらず、同時に同じ機械操作においてもより容易な技能ですむという意味での非熟練化も進んでいることを例証している。もはや、それまでのような徒弟として培ってきた万能型熟練は必要とされなくなっただけでなく、工程によっては自動化された機械にワークをとりつけるといった程度の技能だけで済むことを示している。
 親方支配型の生産体制の解体は熟練の陳腐化・非熟練化だけでなく、それは親方が受け持っていた様々な機能を経営側が自身で行わなければならないことをも意味している。例えば、賃金管理や労務管理の機能をA鈑金は引き受けていかなければならない。これが管理の制度化を進める誘因になる。一九七七年には、教育費を工程費に組み込んで親方による教育とは異なった単能工型にあった教育のマニュアル化を進めている。また、八一年には就業規則の見直しを始め、その後、給与体系の見直しもすすめ、能力給型の賃金制度を検討している9 。親方支配型の生産体制の解体は、経営側の管理の合理化を伴っているのである。     

第三期 労働過程の情報化

 第二期が経営者の意識的な親方支配型の生産からの脱却を目指した生産の自動化の追求であったとすれば、第三期はこの生産の自動化に伴って生じてきた諸問題の積極的な解決を目指した時期として位置づけることができるかもしれない。第二期においては経営の積極化が功を奏し、第二次石油危機、円高不況にもかかわらず、「不況に強い大田区」の企業の名にふさわしい成長を続けている。図面管理の徹底により、設計も手がけ提案型企業への足がかりを築いていくのもこの第二期の後半である。しかし、順風満帆に見えたこの時期においてもいくつかの問題点が生じていたことも事実である。
 第一に、鈑金加工は騒音、振動を出す公害型の産業であり、住工混在が難しい。大田区は昔から住工混在型の地域であり、職住接近という強みを生かして産業コミュニティーを展開してきた。しかし、一九七〇年代以降のホワイトカラーを中心とした新住民の流入は、公害問題を引き起こした。行政も当初は住工分離という方針でこの問題に対処してきた。A鈑金も周囲が住宅地であり、騒音問題を引き起こすことになった。第二に、これとも関連するが、自動化のために大幅に機械を設置したために、工場が手狭になり労働災害が多発した。A鈑金は第二種工業地域に立地しているため、条例で工場の増改築ができないことになっていた。最後に、若年労働力の不足があげられる。大田区内でもいわゆる「3K労働」は忌避され、若い労働者が集まらないという状態になった。A鈑金は一九八九年に茨城県に工場を新設することによって、こうした立地条件の制約に対処することになった。茨城県への進出は、騒音などの公害対策、節税、従業員の平均年齢の若返りなど「あらゆる問題の解決になった」という。
 さて、茨城への進出は労働組織の観点からすると二つの変化をもたらしたといえる。一つは、茨城工場の稼働開始に伴う東京工場の生産規模の縮小、合理化である。第二に茨城では全く工場経験のない労働者を雇用することになったことによる体系的な教育・訓練の必要性と、それに伴う人事労務管理のこれまで以上の制度化である。以下では、便宜上後者の方から考察しておこう。
 体系的な従業員教育は茨城工場の稼働と同時に中小企業診断士と契約したことから始まり、それまでの機械の操作法のマニュアル化に留まっていたものから、より本格的なものとなる。その意図は、従業員のモラールアップや工程改善の仕方など、生産の合理化を労働者自身が担うようにするための教育を行っていくことにあった。単に機械を操作できる労働者から、企業にとって望ましい「従業員」教育へと展開されるのである。具体的には、3S(整理・整頓・清掃)や5S(3S+清潔・躾)の徹底、改善などの教育である。また新卒採用者に対するOJT、Off-JTも外部コンサルタントに委託して行っている。茨城工場では、改善活動によって不稼働時間の低減のために「レイアウト変更」を実施させ、夜間無人操業を可能にするレイアウト変更を試みさせている。また人事管理においても考課表を作成して、ボーナスに反映させている。こうした施策は、農村出自の工場労働経験を持っていない茨城工場の労働者をA鈑金の望むような従業員として組織化していくプロセスであり、大企業の現場管理に類似した形態をとっている。
 他方、東京工場では「チャレンジ1/2」として、半分の生産規模でこれまでの生産実績を達成する目標が立てられている。労働組織でいうならば第三期は機械の自動化による万能型熟練の陳腐化・非熟練化が前提となる。この熟練の陳腐化・非熟練化が、自動化された工作機械一台につき一人という単能工化をはかるという方向性を取ったことはすでに述べた。第三期では、いったん万能型熟練を陳腐化・非熟練化した上で、その労働を組み合わせるといういわゆる「多能工化」が推進される。これをA鈑金では専門的に扱う機械を一台持った上での多能工という意味で「一専多能工」と呼んでいるが、その実質は、トヨタ生産方式において進められた多能工の初期の形態とかわりがない(大野〔一九七八〕二三頁)。ただ、A鈑金では、万能型の熟練労働を「多能工」と称していたため、それにかわる呼称を与えているだけである。
 すなわち、工作機械による加工そのものはコンピュータの制御によって自動化されているので、労働者の行う労働はワークの取り付け、監視、取り外しといったことに限定される。監視の時間は異常が生じたときに機械が自動的に止まる機構(トヨタ生産方式でいう「にんべんのついた自働化」)を施すことによって削ることができる。多能工とはこうしてできる手空きの時間を使って、他の工作機械を操作することである。体系的教育を進めてきた茨城工場では、この「一専多能工化」は順調に進んでいる。
 しかし、東京工場の労働者は「個性が強く、個性のぶつかりあい」であり、総じて「組織にあわない労働者が多い」ために、「多能工オリンピック」などの奨励策をとったが、この「一専多能工」化はうまく進んでいない。万能型熟練が解体されたとはいえ、経験者として中途採用され、「職人気質が残っている」労働者にとっては、それまでの機械とのマンツーマンの関係を解体されることには抵抗があるのである10 。そのため、東京工場ではこの「一専多能工」化は頓挫している状態である。
 だが、「チャレンジ1/2」として提示されたこの合理化の方針は、いわゆるバブルの崩壊による受注高の減少によって強まっている。それゆえ、合理化は別の方策でもって遂行されなければならなくなった。すなわち工程管理用のコンピュータを導入して、工程管理を強化することである。これはコンピュータ技術を用いた労働過程の情報化戦略とでも呼べるものである。このコンピュータ(一九九〇年導入)は、それぞれの工作機械の稼働状況を把握する目的で導入された。各工作機械にはその端末装置が設置されており、各機械の担当者は、工作機械を稼働させる度に端末装置に自分のカードを入れる。これによって機械の稼働記録が工程管理用のコンピュータに記憶され、各労働者が一日にどの程度、どの機械を稼働させているか(個人機械稼働率)を計測させているのである。現在のところ個人機械稼働率は低い人で五割、高い人で7割となっている。
 この個人機械稼働率は一ヶ月ごとに労働者に公表されている。個人別のグラフ化された前月の毎日の機械稼働率の記録が張り出される。朝礼時に経営者はこの数値をもとに稼働率の低い労働者には稼働率を高める様に努力するよう改善を求める。そして、稼働率の低さは余剰人員が存在していることを意味していると指摘するのである。最近の事例では、このグラフで稼働率が非常に低いことを示し、一年ごとに契約を結んでいる定年後の契約社員の契約継続を打ち切ったという。人員整理を客観的な装いのもとに正統化する手段として工程管理用コンピュータは用いられてもいるのである。
 東京工場では、熟練の解体が進んだとはいえ、いまだに職人的思考を捨てていない労働者が多く、彼らの生産組織への統合は容易ではない。A鈑金における工程管理のコンピュータ化とは、そうした統合できない部分(例えば機械に対するマンツーマン的関係)に関する情報を抜け目なく収集することによって、合理化の突破口を開いていこうという戦略である。そして、その成績しだいでは解雇することも辞さないと示すことで、強権的に労働者の統合をはかっているといってよい。労働者は、常にコンピュータによって監視され、その成績に基づいてサンクションを受ける可能性から逃れないでいることになる。
 こうした労働過程の情報化戦略は、「エレクトロニック・パノプティコン」と呼ぶことも可能であろう(Sewell and Wilkinson[1992])。スーエル=ウィルキンソンは、M・フーコー(Foucault)のパノプティコン(=一望監視システム)概念を援用した「エレクトロニック・パノプティコン」について以下のように述べている。「コンピュータに基づく技術を用いた電子的な監視体制の発展・改良によって可能となる手段を用いて、経営者は責任をチームに委譲することで達成できる利点を得ることができる。同時に、監視を行う構造を保有し、情報を収集・保持・流布することによって、権威と規律・訓練的な統制を経営者は確保しているのである。……エレクトロニック・パノプティコンでは、不可視の眼が建物や空間の制約を打破し、まさに労働過程の中心部にその規律・訓練的な眼差しを注ぐことができるのである」( ibid., p.283)。この叙述の「責任をチームに委譲する」という文言を、「多能工化を拒否する熟練労働者を用いる」に替えてみると、スーエル=ウィルキンソンのいう状況がそのままA鈑金に当てはまっていることが理解できるであろう11
 つまり、コンピュータ技術が労働に対してもたらす可能性は、たとえそれがヒルシュホーンやピオリ=セーブルの論じるような労働者を再熟練化するような可能性があるとしても、他方でより強固な管理・統制の基盤をも準備するものでもある。とりわけそれが労働組合という対抗勢力のない企業ではコンピュータによる支配といった意味が強まる。コンピュータ技術の利用は単に生産の自動化、精度の高い加工に関連して労働過程を規定しているだけでなく、生産管理の側面からも規定しているのである。そして後者は労務管理に看過することのできない影響を与えていといわねばなるまい12

4 結論

 A鈑金の合理化の過程は二つの意味でのコンピュータ・テクノロジーによって支えられていた。一つは生産の自動化を推進するために用いられたNC工作機械である。これによって、熟練労働者の勘やこつに頼っていた鈑金加工から、精度の高い精密鈑金加工への移行が可能になった。この精密鈑金への移行によってA鈑金はFS型企業としての地歩を築くことができたといっても過言ではない。精密鈑金といううりを持つことによって顧客の拡大をはかり、それによって現在ある生産へのシステム的、ネットワーク的な再構築が可能になったのである。他方で、コンピュータによって図面管理を徹底してくことにみられるように、このプロセスは労働者側で保持していた勘やこつといった加工に関する知識を、経営側が掌握することを意味している。少なくとも東京工場においては加工に関する知識の流れは、コンピュータから個々の工作機械に送られるという意味で一方向的で、労働者からのフィードバックを必要としていない。コンピュータによって加工に関する知識を管理し、熟練の陳腐化・非熟練化の方向性を追求しているのである。非熟練化を進めていくことによって、パートタイマー等の相対的に賃金の低い雇用形態を可能にしてきたのである。NC工作機械を導入することによって、労働者の熟練の解体をはかり、親方支配的な状況にあった大田区の中小企業において近代的な生産形態を可能にする地歩を築いたともいえる。
 二つめに第三期を特徴づけている生産管理、工程管理的なコンピュータ・テクノロジーの利用による労働過程の情報化戦略である。ここでは、加工に関する知識の剥奪ではなく、生産状況に関する情報の収集の手段としてコンピュータテクノロジーが用いられている。個々の労働者の働きぶりをコンピュータ上に記録し、経営の合理化を進めるための労働者に対する統制手段としてコンピュータテクノロジーが用いられている。情報化についてよく論じられてきた双方向性は労働過程の情報化においては存在していない。情報の流れは一方向で、コンピュータによって監視されているだけである。他方で、コンピュータによって得られた情報は客観性を纏って労働者に対する経営側の戦略の正当性を裏付けるものとして機能することになる。R・エドワーズ(Edwards[1979])は中小企業における統制システムを「単純支配」とし、経営者による専制的・恣意的支配として特徴づけていたが、低廉化したコンピュータ技術を用いることによって、中小企業は、労使関係における労働側の規制力の弱さとも相まって、経営者の決定をより「客観的」、「合理的」に示すことを可能にしているのである。この意味で、A鈑金のコンピュータ技術の利用は、経営者の恣意性を強化する方向に作用しているとすることができよう。FS型企業に必要とされるフレキシビリティに関していうならば、コンピュータ技術の利用は、単にピオリ=セーブルのいうような生産の切り替えを迅速に行える可能性を提示しているだけではなく、労働者の非熟練化を前提とした柔軟な労働力の支配(配置転換や解雇)の可能性を準備しているといえるのである。
 おそらくこのA鈑金の事例をもってコンピュータ・テクノロジーを用いた合理化戦略の唯一の可能性を示しているとはいえないだろう。小関智弘〔一九七九〕が提示しているように旧来的な熟練としっかりと結びついた合理化の類型も大田区にはなお多く存在していると考えられる。今後なお、ネットワーク型企業の合理化の諸事例を検討し、その類型化を図っていくことが必要であろう。しかし、A鈑金の事例はピオリ=セーブルが主張するように技術論に基づいた熟練重視の合理化が存在しているとしても、経営側が当初からそれを意図しているわけではないことを示す一つの事例であると考える。そこでは予定調和が初めから存在しているわけではなく、経営側の意図はあくまで熟練の解体を意図してなされてきたのである。その中で多能工化の失敗にみられたように、合理化の過程において経営側が解体をもくろんだ熟練との妥協が成立しているのであるが、しかしこの妥協をなおも経営側のヘゲモニーのもとにとどめるためにさらなる生産工程の情報化を進めたとみることができる。この意味で、A鈑金においては経営者の目指す情報化による近代化路線と第一期における万能型熟練工との、第二期における専門熟練工との対立が労働過程の合理化の旋回軸をなしていたのである。

1 技術革新、とりわけ一九八〇年代に議論されたME化が労働に与える影響についての諸議論を整理しているものとしては、徳永重良・杉本典之編〔一九九〇〕の第一〇章(執筆者:野村正實)、P・トンプソン(Thompson[1989])がまとまっている。

2 今井賢一〔一九八四〕、稲上毅〔一九八九〕、中村秀一郎〔一九九二〕など。なお、今井賢一のいうネットワーク型企業とFS論の関係については今井賢一・金子郁容〔一九八八〕から明らかになっているが、中村秀一郎に関してはその理論的背景にあるのは「シカゴ学派の産業組織論」であるという指摘(三井〔一九九一〕九一頁)もある。

3 本章の論述は、一九九四年に行われた聞き取り調査に基づいている。調査は、若林直樹氏(東北大学助教授)、尾上正人氏(東京大学院生)と筆者によって実施された。この両氏には有益なコメント頂いたが、本論文の内容に関するいっさいの責任は筆者にある。なお以下の論述で、引用はことわりのない限り、インフォーマントの発言である。

4 A鈑金は関・加藤〔一九九〇〕が「OD鈑金」としている企業と同じ企業である。

5 熟練縦流し生産は山本潔〔一九九四〕が「万能職場」として類型化した作業職場の類型とほぼ同じであると考えてよい。

6 以下、「熟練解体」、「非熟練化」という言葉を用いるとき、時系列的な意味での熟練の衰退を含意している。従って、A鈑金で現在行われている労働が他の企業に比して低い熟練を保持しているのか、それとも高い熟練であるのかは、ここでは扱っていない。たとえ、A鈑金の労働が現状では同業他社に比して高い熟練を保持しているとしても、ここではFS型の企業が熟練を積極的に評価してそれを利用しようとしているのか、それとも放逐すべき障害物として認識した戦略を取っているのかというのがあくまでも問題となる。なお、本稿では「熟練の陳腐化」は、労働手段の変化(例えば、道具から機械への変化)によりある技能(手加工)が他の技能(機械操作)に代替されることを意味し、他方、非熟練化は同じ作業が機械体系の発展によってより容易な技能で可能になることを意味する。「熟練の解体」は、「熟練の陳腐化」と「非熟練化」の両者の意味を含意している。

7 「城南地域においては、町工場をいくつか転々としながら技術を修得し、三〇代で貸工場にて独立操業するというケースがごく一般的にみられ、城南機械金属工業の底辺をいっそう厚いものにしている」(関・加藤〔一九九〇〕八七頁)。また京浜工業調査会〔一九九四〕の「付篇」に収められている一四あまりの聞き取り調査の事例の中にもそうしたキャリアをもった具体例を多く見いだすことができる。他方、A鈑金の経営者は今後大田区の中小企業が生き残っていく条件として、これからは「情報を集められない企業はやっていけない」、「職人企業はつぶれて行くだけである」と述べ、A鈑金が旧来的な大田区の中小企業(職人企業)とは異なることを強調している。

8 H・H・クライゼンは、先にふれたノーブルの説がNC技術開発におけるアメリカの社会的条件によって規定されているものであり、それとは異なる社会的条件にあったヨーロッパ(特に旧西ドイツ)ではNC技術は異なった道筋で発展してきたとしている(Kreisen [1992])。クライゼンによると、アメリカ型のNCが自動化指向(automation-oriented)型で現場での労働を排除するという方向性を持っていたのに対して、ヨーロッパ型のNC技術の発展は労働過程指向(work process-oriented)型で、現場での熟練労働によって補完され、柔軟性を高める方向をとったとしている。ここで、クライゼンは現場で労働者自身によるプログラミング、数値入力を可能にする点をヨーロッパ型の発展のメルクマールとしている。この説に従うならば、A鈑金のNC工作機械の利用は、それが最初に導入したのが皮肉なことにドイツ製の工作機械であったのではあるが、アメリカ的な「構想と実行の分離」を指向した利用であるといえる。その一方で、大田区の中小企業におけるNC工作機械の利用がすべてアメリカ的な志向であるわけではない。とりわけ旋盤工小関智弘氏が叙述したNC旋盤をめぐる職場の状況は、いわばヨーロッパ的なNC工作機械の利用がなされている事例であるといえる(小関〔一九八五〕 特に一五六頁以下)。

9 しかし、この時に給与体系の改正は行われていない。というのも、経営コンサルタントによる診断の結果、A鈑金の賃金体系は実質的に「能力給型」の賃金であったことがわかったからであるという。これは他の町工場と同じく、中途採用者が多いので、年齢給が難しいためである。中途採用者あたっては、応募時に何ができるのかを書かせ、三ヶ月間は仮採用の形を取る。東京工場の労働者の初任給に関しては、現在でも当人の前の職場の賃金を出発点にしている。

10 こうした状況はトヨタ生産方式の成立過程においても見られた。「従来のひとり一台の慣習から抜け出して、ひとりで何台も機械を持つようにするためには、技術的なむずかしさもさることながら、作業者の習慣を打破することが、それにもましてむつかしいことがらでありました。作業者の最初のひとりが、ためしに、二台の機械を受け持ってみるというところまで、こぎつけるのに、約1年かかっています」(トヨタ〔一九五八〕二八一頁)。

11 当然のことながら、生産の組織化・合理化を度外視するならば、「専門熟練工」を雇用していることによって、非熟練工よりも段取り時間が短くすむなどの利点が生じる。A鈑金の経営者もこのことを認めており、一専多能工化を進めたにもかかわらず東京工場では「現在では一専多能工よりも単能工の(技術力の)方を評価している」と述べている。

12 非量産品の生産という点ではA鈑金と共通する、日立のタービンブレードの加工工程のFA化を考察した平本厚は、「情報技術革新は、機械加工をほぼ自動化するだけでなく、その生産制御情報と生産管理情報とを一元的に処理することで、加工の速度と適応性を飛躍的に高めたのであった。その意味で、それはたんなる自動化ではなく、情報化による生産システムの革新なのであった」(徳永・杉本編〔一九九〇〕五五頁)とし、労働過程における情報化はコンピュータ技術を用いて二つの情報を統御することを明確にしている。他方、生産管理と労務管理の関連に関して、日立の賃金制度は形式的に「組請負」で、これは能率向上と賃金支払いに用いられているとしたうえで、標準時間の設定に「現場の意見が反映」されており、「賃金支払いを通して能率を刺激しようという意味はもはやあまりない」としている(同書 八九ー九〇頁:執筆者は平本と平地一郎)。日立ではA鈑金ほど生産管理情報があからさまに労務管理のための情報として用いられていないのかもしれない。この点に関して、A・ジェンキンスは工程管理の情報化がどのような労務管理をもたらすかは、「企業のエトス」や労働者側の「企業に対するコミットメント」の仕方によって異なってくるとしている(Jenkins〔1994〕 p.26)。A鈑金のような小企業においては生産管理と労務管理の機能的未分化という状況が強く影響を与えていると考えられる。

 

参照文献
Braverman, H. (1974) Labor and Monopoly Capital: The Degradation of Work in the Twentieth Century, New York, Monthly Review Press. 富沢賢治訳(1978)『労働と独占資本』岩波書店。

Edwards, R.(1979) Contested Terrain: The Transformation of the Workplace in the Twentieth Century, New York, Basic Books.

Hirshhorn, L. (1984) Beyond Mechanization: Work and Technology in a Postindustrial Age, Massachusetts, MIT Press.

今井賢一(1984)『情報ネットワーク社会』岩波書店。

今井賢一・金子郁容 (1988) 『ネットワーク組織論』岩波書店。

稲上毅(1989)『転換期の労働世界』有信堂。

Jenkins, A. (1994) "Just-In-Time, 'Regimes' and Reductionism," in Sociology, vol.28, no.1, pp.21-30.

京浜工業調査会(1944)「大田区の機械金属工業調査報告――工業の沿革・構成および町工場の生産・生産行動――」『大田区立郷土博物館紀要』第4号,pp.138-183。

小関智弘(1979)『春は鉄までが匂った』 晩聲社。

小関智弘(1985)『鉄を削る――町工場の技術――』太郎次郎社。

Kreisen. H. H. (1992) "On History of NC-Technology: Different paths of Development," in Altmann, N., et al., eds., Technology and Work in German Industry, London, Routledge.

三井逸友(1991)『現代経済と中小企業』青木書店。

中村秀一郎(1992)『21世紀型中小企業』岩波書店。

Noble, D. F.(1979) "Social Choice in Machine Design: The Case of Automatically Controlled Machine Tools," in Zimbalist, A., ed., Case Studies on the Labor Process, New York, Monthly Review Press.

大野耐一 (1978)『トヨタ生産方式』ダイヤモンド社。

Piore, M. J. and C. F. Sable(1984)The Second Industrial Divide: Possibilities for Prosperity, New York, Basic Books. 山之内靖ほか訳(1993)『第二の産業分水嶺』筑摩書房。

関満博・加藤秀雄(1990)『現代日本の中小機械工業』新評論。

Sewell, G. and B. Wilkinson(1992)"'Someone to watch over me': Surveillance, Discipline and the Just-In-Time Labour Process," in Sociology, vol.26, no.2., pp.271-289.

徳永重良・杉本典之編(1990)『FAからCIMへ――日立の事例研究――』同文舘。

Thompson, P.(1989) The Nature of Work: An Introduction to Debates on the Labour Process, London, Macmillan. 成瀬龍夫・青木圭介ほか訳(1990)『労働と管理――現代労働過程論争――』啓文社。

トヨタ自動車工業株式会社(1958)『トヨタ自動車二〇年史』トヨタ自動車工業株式会社。

山本潔(1994)『日本における職場の技術・労働史1854〜1990』東京大学出版会。