尚志会 vs. 茗渓会

下記の抜き書きは伊達伍「教員回顧録」(尚志昭二の会『和心』1980年)からである。戦前の中等教育の教員養成にあたっていたのは広島高等師範学校と東京高等師範学校とであり、前者の同窓会名が尚志会、後者が茗渓会である。その両校の卒業生たちは強いライバル意識をもっていたようで、学校現場における学閥の状況を赤裸々に記した箇所を抜き書きしてみた。また、当時の教員の昇給が校長による裁量で行われていたことも示しており、この点からも興味深い。なお、タイトルの「尚志会 vs. 茗渓会」は私が勝手につけたものである。 
 鳥取県では、当時まだまだ学閥が存在していた。奥山君と私の転任問題が順調に進んだのは県に先輩の丸山視学が居たお蔭である。その事は奥山君からもよく聞いていたし、県の尚志会の会合で私は当の丸山視学にお目にかかり、その節、直接その件を承って、御礼を行ったものだ。
「君を長崎から呼び寄せるについても、可成り無理押しをしたものだぜ……」
と丸山視学は笑っていた。
 茗渓閥と尚志閥、それが裏面には動いていた。最初の真田三六校長は、古い師範出で視学から成り上った人なので別に問題なかったが、その後茗渓閥の校長が二代相次いだので、その間はいつも精神的な重圧が感じられて油断もならない。実は面白くない時期だった。
 特に鳥取県師範教頭から新任校長となって来た黒川多三郎校長の許ではさっぱり認められないばかりか、実に傷心抑々として勤めざるを得なかった。毎朝、出勤簿を押しにはいり、校長に朝の挨拶をしても、応じて呉ない。知らぬ顔の半兵衛ときめている。それもよいが、時には故意に顔をそむける。そんなことが毎日のように続くのである。いくらお人好しの私にも、「この野郎」と時に、内心こみ上げる不快さで校長への憎しみさえ感じたものである。校長の方にも或は、「広島出、尚志会員」という先入的な不信感があったのかも知れない。
この校長の五、六年間は大げさに云えば、私の苦難時代と云えるであろう。然し私は敢て従順に、どこまでも逆ることはしなかった。{55頁}

山田校長の優遇
 昭和十三年春の人事異動で茗渓閥から尚志閥の校長に変った。女子師範の教頭山田徳次氏が校長として赴任すると、えらいもので私の環境は急変してしまった。校長は時々私を呼んで、色々学校の内状を訊ねてくれる。時には、校長の学校教育に対する考え方も聞かされる。校内でたった一人の後輩であるからだろう。初めから万幅の信頼をよせて呉れる。前の校長のそっぽ向きとはえらい違いになってしまった。
これが学閥と云うものだろう。しかし、同窓なるが故の信頼感、それが教育上の上に力ともなろう先づ教師への信頼感があってこそ校長の人格も光り、教師も生き生きと蘇るのだ。
 その年、昭和十三年度の学年末であった。私は校長室に呼ばれた。校長は、職員の履歴書綴を開いていた。私の履歴書のところをあけて、 「伊達君、今まで気がつかずにいたが、君は前の校長には隨分にらまれていたなァ」
「そうだろ、給与が一度だって上っていないじゃないか…… よし君には来年度から一っぺんに十円あげてやろう。それに、君が適任だ、四月から半年間東京へ留学じゃ……」
と云って鳥取県で一名割当てられている、国民精神文化研究所への入所が命ぜられた。私にとって有り難い校長だった。今まで苦境にあった私も、情ある校長の思いやりで昇給はするし、半年間の休養も与えられたのである。私はお蔭で妻と三人の幼児を連れ、しばらく東京暮しを味わってくることが出来たのである。{56頁}
 山田校長からの一言は、今も私の耳に残って忘れられない。贔ママの処置にしてもその時の山田校長、よくも私の心中を読みとったものだ。  東京から帰ると、すぐに高等官六等奏任待遇となり、正七位の位階まで戴き年俸取りの身分に変身したのだ。先づ目出度しでもあった。{57頁}