祖父・伊達伍の著作集

2021年は母方の祖父・伊達伍の没後30年ということもあり、祖父の著作をネット上で公開していくことにした。10年ほど前までは叔父がこつこつとデジタル化して公開していたのであるが、高齢になったためか既にサイトを閉じてしまい、読むことができなくなっている。在野の郷土史家であった祖父が書いてきたものだが、リンクをしてくださった方もおり、郷土香川の歴史や地質について書かれた論考が、このまま読まれずに捨て置かれるのは惜しいと思い公開する次第である。今では古くさくなった知識や間違いとなったものもあろうが、地元の人にもあまり知られていないことや、忘れさられたこともあろうということから、祖父の業績をまずはネット上に残しておき、後はグーグルに任せることにしたい。

A. 著作一覧(未完成)

  1. 「塩飽領瀬居島におる高松藩領の痕跡」『新香川』

  2. 「名君頼常逸事伝」(『新香川』に連載)

  3. 「豪奢な殿様頼豊公」1〜16(『新香川』に連載)

  4. 「殿様臨終記」(『新香川』に連載)

  5. 「郷土の遺産」(『教育香川』1970年12月号〜1971年6月号に連載)
           目次

  6. 「讃岐の石」 (『新香川』1974〜1975年に連載)
           目次

  7. 「教員回顧録」尚志昭二の会『和心』1980年
           一部抜き書き「尚志会 vs. 茗渓会」

  8. 「高松藩の用人伊庭弥助」高松市文化協会編集委員会編『文化高松』第3号 1981年

  9. 「公儀役人殺害一件始末」高松市文化協会編集委員会編『文化高松』 第4号1982年

  10. 「お山屋敷のぬれ仏」高松市文化協会編集委員会編『文化高松』第7号 1985年

  11. 『多肥郷土史』前編・後編(共同執筆者) 1981年

  12. 『三谷郷土史』(共同執筆者) 1988年

  13. 『さぬき一宮郷土誌』(共同執筆者) 1990年

  14. 『十河郷土史』(共同執筆者) 1992年


祖父73歳の時(1980.11.22)

B. 祖父・伊達伍について

伊達伍(1907-1991)は香川県仲多度郡与北村(現、善通寺市)に生まれた。14人の兄弟姉妹のうち下から3番目、男子では末子であった。旧制丸亀中学(現、丸亀高等学校)を経て広島高等師範学校を1927年に卒業。中等教育(師範学校、旧制中学、高等女学校)の地理、歴史科教員の免許を取得し、戦前・戦中には旧制壱岐中学校(現、壱岐高等学校)、倉吉高等女学校(現、倉吉西高等学校)、倉吉中学校(現、倉吉東高等学校)で教鞭をとった。倉吉高等女学校時代の1939年には、東京の国民精神文化研究所に半年間留学する経験をしている。

敗戦後、1948年4月に出身地である香川県に戻り、新制坂出中央中学校(現、坂出中学校)の教頭、坂出市立林田中学の校長を歴任した。その後、瀬居中学を経た後、高等学校教員に転じ、定時制の善通寺第二高等学校(現在、廃校)で55歳の定年を迎えた。定年退職後も坂出商業、善通寺一高、飯山高校に講師として勤務したが、1974年67歳で教歴を終えている。

同窓会誌『和心』(1980年刊)に掲載された「教員回顧録」を読むかぎり、決して順風満帆な教員生活であったわけではなかったが、自分の居住する地域に関する歴史的、地誌学的な勉強を続けてきた。これは「地方に行けばその地の郷土史は研究せよ」との恩師の教えでもあった。このため、晩年は郷土史家として高松近郊の町の郷土史の執筆を依頼されるようになった。『多肥郷土史』をかわきりに、10年ほどの期間に近隣の町の郷土史を数冊執筆した。驚くべき生産性である。

祖父の最後の書となった『十河郷土史』の共執筆者の一人、桧皮均氏は「偉大なる伊達先生と共に名を連ねることを光栄に存じます。十有余年先生の門下生として後教導頂いた」とその「発刊の辞」に記している。いささか大仰な賛辞であるが、今思えば、協力者を得て史跡を巡り、敬意をもって接せられ、集めた資料に埋もれながら原稿を書いていたこの頃が、研究者としてもっとも幸せな時期であったのかもしれない。

祖父が57歳の時に初孫として産まれた私は、両親が共働きだったこともあり、小学校の頃は夏休みになると祖父の家に預けられ、祖父から様々な影響を受けた。岩石や化石を採集に行ったり、史跡や古墳を巡ったり、昆虫採集や魚釣りをしたりと、祖父っ子として育ってきた。日記に「また孫が来た。研究ができない。」と記されているのを後年見つけた際には苦笑いするしかなかった。今、まがりなりにも研究者となって生活しているのも、こうした祖父の背中を見て育ったためであろう。


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上の2葉の写真は祖父のノートである。コピーのない時代、手書きで写本していたのである。前述の「教員回顧録」には次のように記されていた。

「幸いなことに坂出には県下有数の『鎌田郷土博物館』があった。学校の暇にはそこに通い、博物館に集められた蔵書は一通り読破した上、館長の信用を得て特に私には借出しも許されたので、印刷字本の別なく数の多い郷土文献は悉く自筆で写し取り、そのノートを綴り合せて自分の蔵書として置いたので、鎌田郷土博物館の蔵書は、その儘悉く私の書棚にあって研究上大変な便益となった」。

多少の誇張はあろうが、実際、祖父の家にはこうしたノートの束が本棚に所狭しと並んでいた。また文献的な知識のみならず、民俗学的なフィールドワークや地学・地理学的な巡検を実施してきた。『十河郷土史』の幹事による「あとがき」には「ご高齢の身でありながら、地区内くまなく廻られ、遠くは吉田川の源流探究に、三木町田中の奥まで足を運ばれ」(770頁)と記されていて、執筆を依頼した人たちにもその行動的な研究姿勢が印象に残ったようである。現地の古老や関係者の話にも耳を傾けるとともに、地質学の知見を動員して現場を確認しながら考証を重ねてきた。それが祖父の研究スタイルであり、叙述にもその特徴が垣間見れるのである。

なお、書写したノート類は祖父の死後、譲って欲しいという郷土史仲間に売却したとのこと。どのような文献があったのか今となっては知ることもできず残念だが、価値がわからぬ遺族よりも、理解してくれている人の手に渡ることは文化の継承という点では良かったのではなかろうか。写真の一冊はかろうじて残っていたものから私が貰った物である。祖父とは異なる学問分野へと進んだため、その価値は分からぬが、しかし、亡き祖父の形見として大切にしていきたい。

初稿 2021.3.25