シンポジューム 全自・日産53年争議
半世紀後の総括と課題

2003年4月26日(土)横浜市立大学にて「シンポジューム 全自・日産53年争議」を開催しました。このホームページではそのシンポジュームの記録や全自についての記録を順次掲載していこうと思っております。

***
(since April, 30, 2003)
  • 訃報

    日産重工業労働組合(日産第一組合)初代書記長、全自初代委員長など、戦後直後の日本自動車産業の組合運動で数々の要職を歴任し、このシンポジュームでも53年争議当事者として参加いただいた中村秀弥氏が2004年8月に逝去されたとの連絡を頂きました。シンポジュームでは、組合責任者として生産復興闘争などの経験について語っていただいたことを今でも懐しく覚えております。謹んで御冥福をお祈りします。
    追憶のために、全自委員長時代の中村氏の写真を2葉を掲載させていただきます。
  • このシンポジュームについて

    このシンポジュームは日産と全自日産分会の大争議から今年が50年目となることを記念して、当時日産分会で活動されていた方々、現役の労働運動関係者、および労働問題研究者という三者が連携する形で企画、実行されました。通常「日産争議」と称されてきたこの争議を、「全自・日産53年争議」とした理由は分会関係者の一人より「この争議は日産だけの紛争ではなかった。全自において三社共闘として取り組まれていたのだ」という御指摘があり、それを考慮して通称とは異なる名称で呼ぶこととしました。
  • シンポジューム・プログラム

    1. 講演会 木下武男(昭和女子大教授)
      「全自型賃金の歴史的意義:労働運動と賃金体系」(mp3ファイル。約13MB)(現在サーバー容量の関係で休止中)
    2. ビデオ上映
    3. 53年争議参加者とのディスカッション
  • 当日の様子はこちら

  • 当日の配布資料(残部僅少)

    1. 木下武男先生の講演レジュメ(6頁)
    2. 飯島光孝氏(元全自日産分会常任委員)「53年日産争議の体験を通じて」(7頁)
      自著『朝はるかに』などで自らの日産争議の経験を描いた飯島氏が、熊谷・嵯峨(1983)や上井(1992)などとの記述と史実との違いを指摘し、自著への補遺を記している。
    3. 全自日産分会内有刺鉄線編集委員会発行闘争詩集『有刺鉄線』(53年9月10日発行 24頁:pdfファイル84KB)
    4. 全自・日産53年争議関連文書資料集(吉田誠編 14頁)
    5. 全自日産分会関連年表(吉田誠編 18頁)
  • 全自、全自日産分会および53年争議について

     全自とは全日本自動車産業労働組合の略称で、敗戦後の1948年に自動車産業の労働組合を集めて結成された産業別労働組合です。当時の日本の自動車産業はまだまだ規模も小さく、総組合員数も5万人弱(50年頃)でしたが、その活動方針や戦闘性から一目置かれてきた組合でした。特に二代目の委員長を務めた益田哲夫(日産出身)の名はカリスマ的指導者として広く知れわたっていました。1952年秋には彼の指導のもと「賃金原則」と、これに基づく「六本柱の賃金」という賃上要求案が発表され、産業別横断賃率の構築を目指した闘争が組まれました(吉田, 2004ab, 2005)。
     この闘いを更に進めようとした1953年には、日産と全自の日産自動車分会(以下日産分会)との間で100日以上に渡る大きな争議が起きます。会社側がしかけたとも言われるこの争議では、日経連や総評といった外部の勢力をも捲き込んだ総力戦に突入します(熊谷・嵯峨, 1984)。組合側のストライキや職場闘争に対して会社側はロックアウトや懲戒解雇で応酬するなど激しい対立が続き、この過程で組合が分裂し、現在の日産自動車の組合である日産自動車労働組合が第二組合として結成されました。分裂を境として日産分会は敗北を余儀なくされるとともに、その後、紛争時の組合員への貸付金をめぐるトラブルに捲き込まれていきます。
     第二組合は自分たちの組合員が紛争時に分会から借りた生活援助金を返すことを妨害し、分会を財政的に破綻させる作戦にでたのです。これによって日産分会は全自の各支部や総評傘下の友誼団体等から借りていた資金の返済に行き詰ります。第二組合の労使協調による日産の業績回復に焦ったトヨタやいすゞ分会の策動もあって、ついに54年12月には全自の解散という「労働運動史上未曾有の悲劇」(労働省, 1955, p.866)を招来してしまうことになったのです。全自解散後、トヨタやいすゞも、日産の第二組合を真似て、企業系列を足場とした傘下組合の再編に進んでいきます。これ以降、日本の自動車産業は企業内部における労使協調を基調とした激しい企業間競争の時代に突入していったのです。
     さて、全自解散後もなお日産分会は存続していました。少数となった分会に会社や第二組合側は執拗に攻撃をしかけました。誹謗中傷や荒唐無稽なデマが流され、配転、村八分などによって分会員たちの職業生活はずたずたにされていきます(吉田, 2004c)。しかし、それでも屈っすることを良しとしない人たちは分会に残留し、抵抗活動を続けています。
     これに対して会社側は分会員を最終的に排除すべく、待命という制度を導入します。待命とは適切な仕事がないことを理由に6ヵ月間自宅待機させた後に解雇する制度です。日産では55年の1月に導入され、その年11月と翌年2月に合計21名に対して待命が命じられています。
     一連の会社からの攻撃に対して、日産分会は裁判や労働委員会への提訴で闘ってきたのですが、56年の4月には神奈川地労委の審査(53年の懲戒解雇・諭旨退職を巡る審査)で「申立棄却」となってしまいました。全自解散後も、1年以上に渡ってねばり強く鬪い続けてきた日産分会も、これが致命的となったようです。同年9月1日に解散を総会で決定し、19日に第二組合へ分会残留者全員の加入申請書などを一括提出し、日産分会の歴史は閉じたのです。こうした経緯があるにもかかわらず、日産分会の解散日が、第二組合との話し合いで、解散日を8月30日とさせられたということは、記憶されてしかるべき事柄だと思います。何故なら、8月30日とは第二組合の結成記念日だからです。
  • PR用チラシのリンク:バージョン1(856KB)バージョン2(769KB)

    PR用チラシには二つのバージョンがあります。当初作ったバージョン1は、元全自委員長の中村秀弥氏から頂いた写真を使ったのですが、日産の労働組合がまだ全日本機器に加盟していた頃の集会の写真だということで、バージョン2の写真に切り換えました。
    バージョン2では本などによく掲載されている写真を使いました。53年8月20日早朝に会社が構築した巨大なバリケードの前で抗議の座り込みをする日産分会員たちです。
  • 参考文献