はじめに

少しずつだが、前任校の最後の時期に経験したことを書きとめておこうと思う。暴露話的なことにも触れることになろう。タイトルの「公立大学という病」は市大時代の思い出に由来する。昨年(03年)の年の瀬に、教員仲間と呑んでいて「誰かこの大学を早く脱出して、こんなタイトルで本を出し、市大の惨状を告発してくれないか」と愚痴をこぼしたことがあったからだ。その時は、まさか自分がこんなに早く大学を去ることになろうとは思っていなかった。また脱出したからといって、そんな本を書くつもりもない。ただ、その時の思い出として、このタイトルにしているのである。ここに書いていることは何の分析や診断もなされてなく、自分が経験して覚えていることだけを書きなぐったものなので、その意味ではタイトルは大袈裟な表現となっている。
現大学に来て、国立大学の法人化と公立大学の独法化の余りの違いにあぜんとするばかりである。このことをきちんと分析していかなければならないが、自分にはそうする能力も時間もない。ただ今言えるのは、地方自治を是とする素朴な考え方については随分と不信を持つようになったことである。「地方自治の時代」という言葉を聞くと身を構えてしまうし、また構えるべきだと思う。東京の教育界で起こっているように、強大な権限をもつトップの下で民主主義の常識が通用しなくなる局面があり、それに歯止めをかけることが難しいからだ。それは市大で体験したことでもあった。
 最近、高松市の近隣の町で起こった事件がある。町が土建業者のたちの作った「NPO」の協力を得て、町民から親しまれてきた里山を桜の公園とするために、重機で従前からある自然林を根こそぎ伐裁したのである。町は住民参加型の事業として自画自賛したが、事前調査も行われないままに実施され、地肌がむきだしになり、無惨な光景を呈している。また、防災や自然植生の保全という観点から問題が指摘され、当初は静観していた県もさすがに指導に乗りだすなど、異例の事態となったのだ。これが末端の地方自治の現状なのである。国レベルでは環境問題が大きなイッシューであると位置付けられるようになり、こんな無茶苦茶は許されなくなってきているにもかかわらず、地方の末端に行くとそこに待ち受けているのはあいかわらずの土建屋の発想であり、一旦、自治体トップがその方向へ舵をきったならば、それを誰もストップさせることができないのである。どこかで見たような光景が故郷に帰ってきても待っていたのだ。そして、先日、その山の近くをドライブしたら山頂に巨大な日の丸が掲げられていた。
 横浜市大の話に戻ろう。「大学の自治」に疑問を抱いていた当時の総務部長(現泉区長:04年4月現在)が、権力(市長)の交代劇を機に大学自治破壊を試み、みごとにその解体への道筋をつけてしまった。彼の過去の放言録には「教員は商品だ。商品が運営に口を出すな。」といわんばかりことが書かれており、それは今年のプロ野球球団合併問題でのナベツネの暴言にも似ている。世論に後押しされてプロ野球では選手会の側が勝利したが、公立大学ではそうはならなかった。かつてのように大学に社会的な存在感がなくなってきているためだろうが、しかし国立大学では、最低限の線ではあるが、どうにか自治的枠組みが守られたのも事実である。公立大学だけが、いとも簡単に破壊されてしまったのである(国は大学自治破壊の実験場として公立大学を見ているフシがあり、その惨事を黙認・追認している。この意味で公立大学という病のありようが、今後の国立大学のありようにも大きな影響をもたらすことにもなりかねない。今の私の危惧はここにある)。
 一旦走り出すと、地方行政の枠組みでは、中庸な意見やバランス感覚のある見解が排除され、弊害が起きていることは皆感じているはずなのに、当初通りの極端へと向い、ストップさせることができなくなる。市大で起こっていることは中国の文化大革命のミニ版みたいなものであった。「あり方懇」の座長を始めとして、少からぬ大学人が、その流れに加担しているのを見てきた。彼らはすすんで、「地方自治の時代」をキャッチフレーズが賑う中で、下(地方行政)からのファシズムの尖兵たらんとしているのであろう。
 アンケートの都合のよい部分だけを抜き出し、都合の悪いことは情報開示しない役人。上司にしか目の向いていない役人。内規さえ遵守しない役人。予算が足りず、図書館の外国語雑誌がどんどん減らされていくなかで、事務局ばかりは華美になり、大学破壊の尖兵となっていた企画課長のデスクやチェアは新調され、改装されたトイレにはウォシュレットがついた。
 市大時代には随分と多くの職員の方々にお世話になり、恩を感じている人も多いが、しかし最後の三年は違った。小役人ばかりが跋扈し、プチ権力者としてこの世の春を謳歌していた。おそらく地域で対抗的活動している人々が感じてきた役人の嫌らしさというもの。これを私は味わったのであろう。
 もう一つ自分のことも書いておかなければならない。組合書記長という大任を受けたにもかかわらず、たった2ヶ月でその職を放り出し、他大学に移ったことだ。これは天下分け目の決戦を目前に控えている中で、指揮官補佐が敵前逃亡するようなものであり、絶対にあってはならないことだ。現執行部の方々には随分と迷惑をかけることになってしまった。市大の先生方は皆心が広く、責任を問い詰める方はいなかったが、自分としては随分とひけめを感じている。(04年11月6日追記)

  前任校の最後の時期に教員組合の書記長を経験した。たった2ヶ月(実質1ヶ月半)の経験であったが、様々なことがあった。そのなかで絶対に許せないと感じたのは、学長、市の役付き役人、市労連の連中である。だから彼らのことを書いていこうと思う。ただ、最後の市労連を許せないというのはどういうことか。これについては補足が必要であろう。市労連とは横浜市労働組合連盟の略称で、複数ある横浜市の職員組合(市従、自治労など)の連合体であり、市の本庁の人事部との交渉団体となっている。横浜市大教員組合もそれに所属し、私は市労連傘下の一組合の書記長をしていたことになる。では、なぜその上部団体を許せないというのかと訝る人もいるかもしれない。だからこそ事実を正確に書いておく必要があると思う。
  大企業の労働組合が信用できないというのはよく言われることだし、自分のこれまでの調査研究のなかで感じてきたことである。人事部顔負けの労務屋ぶりの発想には辟易してきた。労組へインタビューを申し込んでも、人事部の人間を連れてくるなど、その労使一体ぶりにあきれてしまったこともある。正直言うと、大企業の調査をするのであるならば、労組の連中より、人事部の人の方がずっとまっとうな話しが聞けるし、真実に近づけるとさえ感じてきた。
  しかし、公務員の組合に関しては、自分自身の調査研究の経験もないということもあって、それなりの期待感というのは残っていた。研究会で知りあった自治労の方が「リビングウェッジ運動」を紹介していたということもあって、組合らしさというものを幾分か残している組合ぐらいの印象は抱いていた。教員組合の活動のなかでも、市労連を通せばなんとか当局と交渉に持ち込めるということも聞いてきたので、彼らには頼もしさまで感じていた。しかし、実際に教員組合書記長となって市労連の本部に出かけて感じたのは、奴らも同程度に腐っているということである。大企業労組と同じ穴の豸である。
(04/11/21結構書いたので以下の部分は削ってもよいのだが、最初に書いた部分なのでフォントを小さくして残しておく。)
しかし、まだこの話を具体的に展開してよいものかどうか、気持の整理はついていない。転任によってURLが変わって以来、このサイトへの来訪者が極端に減っている。とはいえ、そこはネット情報の怖さで、どこにどう伝わるかわからないということがある。また、私が書くことにより現在も市大で闘っている教員組合の人たちに迷惑がかかるかもしれない。それは望んでないし、そうなっては困る。
 しかし、かつての同僚に対して、援軍だと思っている連中が、実は相手方の刺客かもしれないということを黙っておくわけにもいかない。退職で書記長を辞するときに市労連にはあえて挨拶に行かなかった。こうさせるに十分なことが市労連との関係であったということを記しておきたいということもある。アンビバレンツな気持が続いているのだ。だから、今回はあまりさしさわりのないことから書いていくことにしよう。

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