I. 市労連という病

教員組合による新聞広告への反応

教員組合が朝日新聞神奈川版に市大改革反対の宣伝広告を打ったのは2004年2月15日(日)であった。組合員には好評を博し、数十万円の寄付金を集めることができたこの広告も、当然のことながら当局の逆鱗にふれるものであった。週開け早々には当局から呼び出しを受け、この件について組合に申し入れをしたいということになった。当局側から市大総務課長と人事係長、こちらは委員長と私が出席した17日昼の申し入れで聞かされたことは、「誰とは言えないが上が激怒している」とのことであった。事実とそれに関する組合の見解をPRしたその新聞広告に、事実誤認等の文句は付けようがない。訂正しなければならない問題があるわけでもなく、お互いの見解が異なることを確認するということでしかない。「独法化にあたっては、これまでの大学の自治を反映した形での移行が本筋なのではないか」と主張する我々に対して、「これまでは先生方が決定権を握っていたけれど、これからは」等々の意見の応酬が続いた。かみ合うような議論はまったくないと言ってよかった。
  ただついでだから、話し会いの最後のほうで、翌16日に出た東京新聞の記事に関しても当局や「上」の反応を聞いてみた。この記事は、「『改革』に揺れる横浜市立大学」と題して、独自取材をもとに横浜市大の改革をストレートに批判した特集記事であった。転出を考えている教員も多く、「隠れFA状態」だとも伝えていた。
  ここ数年、 横浜市大改革に関する新聞記事と言えば当局情報丸呑みの御用記事ばっかりであったが、この記事は教員筋にも随分と取材を重ねているようで、その改革のうさんくささを伝えた本物の取材記事であった。教員側の不安と懸念がきちんと書き込まれており、我が意を得たような援軍記事と感じた。おそらく教員は皆そう感じたのであろう。翌日にはキャンパスのそこかしこにその記事のコピーが掲示されていた。一人が貼ったコピーを、だれかが更にコピーして別の場所に貼るなどということが起っていた。だからこれに対する当局の反応には興味があった。
  もう一つ興味があった。実はその時、私自身が「隠れFA」で、移籍することがほぼ確定的な状況にあったためだ。前年12月に出していた香川大学の公募に引っ掛り、記事掲載日の3日前に行われた面接で採用がほぼ決まっていた。無論、教授会という最後の関門があったものの、しかしこの大学を脱出する可能性が見えてきたということからする心の余裕が少し出てきていた。そういう立場にあると、東京新聞の記事は、まさに自分の事が書かれているようでもあり、それに対する当局の反応が知りたかった。第三者に教員脱出続出という問題が指摘されて、自分たちが実施している改革のおかしさに気づくのではないかという淡い期待ももっていたからである。
  しかしそうではなかった。確かに、困っている風ではあった。なにせ、彼らのコントロールが及ばないところから批判が上ったからである。しかし、基調としてはその記事も組合の意見広告同様の大問題で、事実と異なる点も多いので、抗議も含めて考えているとのことであった。その「事実」ではないと考えられていることの一つの例として出されたのが「隠れFA」問題である。いつもはメッセンジャー以上の役を務められない人事係長(市大商学部出身)が、「教員がみんな隠れFAなんて、とんでもないデタラメですよね。こんなことを考えている人はいないでしょ」と感情的な反発をしてきたのであった。
  自分たちの主導する改革で、母校がそんな悲惨な現実になっているということを認めたくないという気持ちであろう。彼の気持はわからないでもない。だが、現実なのだ。お前らがやっていることで、俺は外に出ることにした。悪いが俺は、つい数十時間前に面接に赴き、採用されることがほぼ決まった。あんたの母校愛がどのようなものであろうとも、それが現実なのだ。だから、能天気とさえもいえるその言葉に苦笑いするしかなかった。お前が今語りかけている人間が、その記事の正しさを証明しているのだと。また当局の病巣の深さも哀しかった。そんな人心離反にさえ気が付いていないのかと虚脱感を覚えるのに十分だった。
  17日時点では当局の言う「上」とはどのクラスかが分らなかった。ただ大学事務局クラスよりもずっと上だということだけは仄めかされていた。議会対策の話も出たことから、一部政党の市議会議員クラスかなとも思っていた。だが、「上」とはまさに市長だった。これに気づかされたのは翌週だった。朝日新聞が市長が記者会見で東京新聞記事に激怒していることを伝えたことからだった。ポピュリストたる市長にとってはメディア戦略が絶対だ。だから、その反応に無理はない。ただそこまで当時は読めていなかった。だからちょっと意外さを感じるとともに、相手の出かたも随分と読めるようになった。
  教員と都庁の対立が激しい、都立大学の問題とは同一視してもらいたくないとうことがはっきりした。反対をしているのは一部教員でしかないという宣伝をうってくることは薄々とは勘づいていたので、意見広告では「統合を予定されている三学部の教員の87%」を組織している教員組合が反対しているのだということを明記しておいた。それでも、おそらく改革案は大学が作ったという形式論で押してくるだろうということが明らかになった。事実、その後、マスメディアや市議会対策ではそう対応している。だからその線をついていけばよいのだということになろう。しかし、それもなかなかうまくはいかない。学長が篭絡されているからだ。
  このことはさておき、市側は東京新聞に抗議したようだ。しかし、東京新聞は市大問題に関して4月20日に続報を出した。圧力に屈せず、筋を通した立派な記事だ。なぜ他社が同じように市大問題を取りあつかてくれないのだろうか。もっといろいろな側面から市大の問題を市民に伝えてもらいたいと思うが、それもままならなかった。
 

市労連の態度:Y書記長の任期制是認論

さて、市労連にとっても組合の意見広告は寝耳に水で、その逆鱗に触れたようだった。市労連から連絡があったのは、当局との折衝を行った17日の夕方であった。あわてて委員長にも同行してもらおうと連絡を取ろうとしたのだが、どうしてもつかまえることができなかった。しかたがないので、一人で対応する覚悟を決め、市労連のある関内(横浜の地名:横浜市役所がある)に説明に向かうことにした。
  関内に着いて市労連のY書記長の携帯に連絡を入れると、ある呑み屋で待っているから来いとのことであった。指示された場所に行ってみると和風のダイニングバーのようなところであった。開口一番、Y書記長から言われたことは総務課長から言われたことと同じ。「上が怒っている」とのことであった。当局との信頼関係が崩れかねないなどと散々批判された。その後しばらくして、市労連副書記長クラスの人(確か書記次長という肩書だった気がする)も現れた。そして何故市労連に前もって教えなかったのかと詰問された。
  こちらとしては、教員組合の市労連担当者より市労連の副書記長には伝わっていたはずだということ、宣伝広告は前の執行委員会からの引きつぎであったなどと言い訳がましく言うしかなかった。前者の話については副書記長は即座に否定していた。何も聞いていないというのである。以前、意見広告には産別(全大協)の名前を借りるべきではというアドバイスを副書記長からもらい、それを執行部で検討したことも覚えているので、当然知っていたはずだと反論したが、自己保身の姿勢がみえみえで否定するばかりであった。だが、自己保身は自分も同じ。格好悪い話だが、前執行部からの引き継ぎだったという話を敢てしたのは多分に自己保身的であったことは否めない。しかし、事実でもある。
 
実は1月19日に行われた組合総会の後の懇親会の席で、当時のF執行委員長に次期執行委員会で新聞広告を出すことを検討してくれないかと言われた。私はこれに対して、それならカンパを募って新聞に意見広告をうつことを考えたらどうかと提案した。事務局主導の改革案が提出されてまだ間もない時期ということもあって、その時の総会は鎮痛な雰囲気であった。総会後の懇親会では、廃止が確定的となった木原研究所の先生が連判状を出して当局と対抗すべきだとか、一人研究所に立てこもっても闘うなどという意見も出ていた。他部局への疑心暗鬼と悲愴感が一緒になって爆発していたのである。
  鎮痛な雰囲気が漂うなかで、教員が一丸となって当局の「改革」案に反対の意思を示すことを出席者が求めていることを知った。出席者の多くがバラバラとなった教員が連帯するきっかけが欲しいと思っているのだ。署名を行って欲しいという声もあったが、私は否定的に考えていた。なぜなら、効果は薄いし、当局がカリキュラム案作成で教員を一本釣りし、分断しようとしているときに署名などすればあからさまな分裂を招きかねないからである。
  そこで組合が改革反対の意見広告を新聞にうち、そのカンパを募ることで組合員の意思統一をはかるのはどうかと考えたのである。新聞に意見広告を出すべきだというのは一部の人達がずっと主張きていたことであるが、それとカンパとを組み合せることで実質署名のような形にしたいということがこの話のミソだ。これなら当分の間は当局に面従腹背の姿勢でいたいと思う人も、カンパを寄せるという具体的行動でその思いを表現できる。また組合としても、そのカンパ者の数やカンパの額によって当局案への反対者が多いことを誇示できる。そう踏んだのである。懇親会が終る頃、F委員長にこの話をしたところ、たいそう気に入ってもらい、新聞への意見広告が新執行部への引き継ぎ事項となったのである。
 
こうした事情があったので、市労連書記長に話したことは決して嘘ではないが、何となく詰問に対する言い訳のような気がして後味の悪いものであった。しかし、この話に彼は少し機嫌をよくした。当局とインフォーマルな関係(交渉)を大事にし、その中で落しどころを探り、公式の折衝ではそれを形式的に確認するというのが市労連(もしくはY書記長)流のスタンスであったからだ。
  ファイティング・ポーズをとる教員組合となると、市労連スタイルの交渉もうまくまとまらないことになる。だが、前執行部が決めたことを現執行部が実行しただけだということならば、何とか当局に言い訳もできる。そう踏んだのだろう。「これは使える」などと彼は呟いていた。
  彼の御機嫌もどうにかとることができたので、今度はこちらから彼に市労連流の交渉に入ることにした。呑んでいる席だからこそ相手の本音が引きだせるということで、Y書記長に今回の改革、とりわけ全教員に対する任期制の導入の実現をどう考えているのかと問うてみた。彼は、あくまでも自分の見解だと断わりながらも、「任期制導入は受けいれるしかない」と語った。その言い方は任期制は既定事項で、もはやひっくり返えすことはできないというものであった。
  これを聞いたとき、「えっ、市労連までがそんなことを言うの!?」という気持ちと「やっぱりか」という気持ちが相半ばした。前者の気持ちについては上で書いている通り。当局に対して実質的に交渉能力を有してきた市労連には随分と依存しているところがあった。直接大学当局に要求しても埒があかないが、市労連を通したらなんとか協議・交渉の門戸が開かれたということをこの1年の間に何度も聞いていたからだ。だから、市労連にまで裏切られたという気持になった。
 
他方、「やっぱりか」という気持ちも偽らざるものであった。それまでの経緯に、こう感じさせる理由があったのだ。それは書記長として初めて市労連の催しに参加した2月2日にまでさかのぼる。この日の17時半より、市労連が窓口となり、大学当局と大学関連四単組が労使協議を持つこととなっていた。各単組の代表者は17時に集合し、予め提出していた市大独法化の定款提出に関する要求事項に関する当局との交渉状況の確認と、議事進行のうちあわせを行った。
  しかし実は、その要求事項についての四単組の話し合いのなかで「改革」の目玉となっている大学教員の任期制については一言も触れられていなかったのである。この要求事項の作成は前執行部の任期中であったのだが、前任者が言うには「どうしても取りあげてもらえなかった」ということであった。だから、この点をまず市労連に質しておく必要がある。だから私は、議事進行のうちあわせの時にこの話をもち出した。
  なぜ雇用条件が最も大きく変る教員の「全員任期制導入反対」を取りあげてもらえなかったのかと質した。それに対しては「独法化に反対する。公務員の枠組みを外すな」という四単組の一致した要求課題の中に含まれているというものだった。しかし、我々からすればそれは違う。教員の「任期制」、すなわち有期雇用化は、改革の目玉として大々的に喧伝されているのであり、まったく別の雇用形態へ変わることになるからである。他の職員の雇用形態が公務員から期間の定めのない雇用契約に自動的に移るのに比して、有期雇用化は雇用条件の著しい不利益変更になるのは言うまでもない。これを表立って議論しないというのは、何か裏があるのではないかと激しく追及した。他の職組の出席者からは、何を今さらそんなことを教員組合は出してくるのだという反応であった。完全に教員組合ははめられていると感じた。他の職員の公務員身分の維持のために、教員組合は切られたのだなと。
  市大の職員は、国立大学とは異なり、大学プロパーの職員ではない。あくまで市の職員が、数年ごとのローテションで大学に回ってくるだけである。確かに10年以上市大に在籍している職員もいるが、多くは普通の市の職員で数年間市大に在籍した後にはまったく別の関係のない部署に移っていく。
  おそまつなことに、地独法はこうした職員を念頭に置かずに作られた法律である。たまたま独法化前日に大学に在籍していた職員は一夜で地方公務員の身分を失ない、独立行政法人化された大学の従業員となってしまうのである。大学事務にアイデンティティのある職員ならまだしも、普通の市の職員として生きてきた人にはたまったものでない。「特に辞令のない限り」は公務員としてのキャリアは断絶され、大学の事務員として残りの人生を生きていかなければならなくなる。だから、市大に在籍している市の職員は不安におののいている。不安をもった職員が自暴自棄となって組合の掲示板に組合批判の書き込みをしていて手を焼いたという話を聞いたことがある。
  思うに、この不安こそが教員バッシングとも言える異常な市大の教員と職員の関係をもたらしていた。職員は「大学改革」に一生懸命励むことで、かの「辞令」にあずかり、公務員身分を守ろうとしていたのである。そして組合、とりわけ市労連も、この線で職員を守ろうとしており、その人身御供として教員の「全員任期制」が差し出されているのではないか、そう考えざるをえなかった。
  その認識をある程度、はっきり確認したのは、その日の労使協議が終ってからだ。市労連書記長に、初対面にもかかわらず、激しい言い方をした非礼を謝しにいったときに、Y氏はそのことはどうでもよいという態度を示しながらも、「人事権を持っている大学教員が、他方で組合をもっているのはちょっとおかしいのではないか」などと口にした。突然、予想もしていなかったようなことを切り出され、躊躇して何か気の効いた反論をすることができなかった。「大学の業務は高度な専門性を有するがゆえに、教育公務員特例法では人事権は教員が有することになっている。もし専門性に依拠しないような人事が行なわれたらどうなるのか」と答えるべきであったと反省している。しかし、驚いたことは市労連の側から教員の人事権への疑念が出たことである。大学の特殊性や事情を踏まえないで、もっぱら大学の人事権のありようを否認するかのような言い方。これは、当局から相当入れ知恵されているなと思わざるをえなかった。
 話をもとに戻そう。何はともあれ、こうした事情が予めあったからこそ、Y書記長の「任期制は受け入れざるを得ない」という発言は「やっぱり」と思ったしだいである。しかし、「はい、そうですか」という訳にはいかない。任期制の問題を随分と語ったのだが、どうも理解できないらしい。有期雇用の本当の恐しさにはてんで関心もないようだ。「有期雇用になれば、当局にたてつく組合関係者は再任なしでサヨウナラですよ。」とこちらが言えば、「そうしたことを跳ね返すのが組合の本当の力だ。」と建前論でかえしてくれる。そんな力が組合にあるのなら、 なぜその力を任期制阻止に使えないのか。当局と密約でもあるのかと言いたかった。 いずれにしても、理由がなくとも契約更新を拒否される可能性があり、これについて闘うことは契約の自由という観点からして難しいという任期制の本当の問題を理解してないことは確かであった。
  そうこう押し問答しているうちに、彼が切り出した。「当局のある人と近くで待ちあわせしているのだけれども、会う気はあるか」と。誰なのかと尋ねると、市大のN総務部長とK人事課長だという。近くに待たしているので、会って話をしてみる気はないかと言われた。私は同意した。ともかく当局が何を考えているのか、どこに落しどころがあるのかを知りたかったからだ。

N総務部長との懇談

 連れていかれたのは、そば屋であった。N総務部長とK人事課長はそこそこ呑んでいたようだ。初対面の部長とは、Y書記長の紹介で挨拶し、名刺を交換した。N部長とY書記長は以前同じ職場で働いていたことがあり、その時以来の関係で、信頼関係がなりたっているとのことであった。部長は大学時代の学生運動歴についても語ったように覚えている。
 そうした他愛のない話をひとしきりした後で、話は本題の「改革」についてに及んだ。彼は教員組合の新聞広告が相当しゃくに触っていたようで、「組合は組合員の総意を踏まえて意見広告を出したのか。私のところに組合がこんなことをするとは知らなかったと言ってきている組合員もいる。」と難癖をつけてきた。さらに「教員組合は市労連の枠組みを離れて、我々に歯向うのだな。だったら全面戦争だ。やってやろうじゃないか。その覚悟はあるのか。」と詰問してきた。突然の激昂に私は正直気後れした。先にY書記長との任期制とのやりとりがあった後なので、「離れてもやっていきたい覚悟だ」と言葉が喉まで出かかっていたが、しかし口が割けても言えなかった。たかが情報収集のために来た席で、全面決裂の結果を出すわけにはいかなかった。「市労連の協力を仰ぎながら、やっていく。」と答えながら、しかし、任期制は教員組合としては絶対に受けいれられないこと、大学自治を蔑ろにした当局の「改革」のおかしさについて語った。Y書記長からは静止された。上役に対して失礼なことを言うんじゃないと嗜める態度であった。
 その時、N部長が言い放った。「お前らは、自分たちで選んだ学長の決定に従えないんだな。」
私は反論はしたものの、この言葉に打ちひしがれた。致命的であった。おかしいことにはおかしいと言うというのが我々の立場であるとは言いながらも、民主的な手続きから出てきたリーダーであることは否定できなかった。私自身、学長選挙において現学長に投票していただけに本当にこれはこたえた。うわすべりの反論しかできなかった。
 そんなこんなのやりとりがしばらく続いているうちに、そば屋の閉店時間となった。Y書記長は当初、別の店へ行くことを予定していたらしいが、あまりにも雰囲気が悪いために中止したほうがよいと判断したのだろう。Y書記長はN部長とK課長を連れてそば屋を出ていった。分れ際に、Y書記長から今後はK課長と密に連絡を取り合うようにと言い渡された。
当時のメモが出てきたので若干加筆した。1年しかたっていないが随分と忘れていたこともあるようだ。特に新たに書き加えたN総務部長の「組合は組合員の総意を踏まえて意見広告を出したのか。私のところに組合がこんなことをするとは知らなかったと言ってきている組合員もいる。」というセリフのはすっかり忘れていた。今更ながら、そんな教員もいたのかと驚いている。勿論、こんなチクリまがいのスリヨリを総務部長に出来る教員はある程度限られており、大体どんな人かは想像がつく。きっと今頃は念願の役職に就いて人生最上の時を過しているのだろう。(05/03/07追記)
 私は副書記長に連れられてそば屋を出た。そして関内のスナックへ連れていかれた。悔しかった。市労連は当局べったり。その腹立たしさを副書記長にぶつけた。交通出身の副書記長は、教員と同じく現市長の下で合理化にさらされていることを語った。それは私も知っていた。現在手元に資料がないので正確なことは書けないが、民営化をちらつかされながら、路線廃止、賃下げ、非正規の運転手の増加を飲まされていた。彼は交通の正規職員の雇用を守ることが絶対だと強調し、当局が打ちだしてくる案には乗るしかないと言った。正直言って、市バスをめぐるその答は、特権化された一部の正規市職員と多数の非常勤運転手との賃金格差を無視したもので共感できなかった。同じ業務をしているにもかかわらず、身分の差によって大きな格差がつくという問題を孕んでいるにもかかわらず、副書記長はその構造には手をつけないままに、少数の正規市職員運転手の特権をどう守るのかということに腐心しているように感じた。
 そのことはさておき、「当局の言うことを聞いていれば、悪いようにはならない。」と彼は私を悟すように言った。これにはカチンときて、「じゃあ、あなたは当局にパンツを脱げと言われれば、脱ぐのですね」と質すと、「そうだ。そうすれば彼らも悪いようにはしない。」と平然と答えた。これには呆れて、モノも言えなくなった。その後、頼んでいたカラオケが回ってきたようで、彼は一人楽しげに歌っている。何か歌えと言われたが、歌う気にはなれなかった。そのうち、彼もママさんたちとの話に夢中になり、私のことは忘れているようであった。時間がきたので、それで帰った。飲み代はあちらが出した。組織費か交際費かしらないがそういう名目で出ている金だろう。腐っているという言葉しかなかった。市労連の連中とはその日以来、会っていないし、会いたくもない。

後日談

(1) 私の研究室の隣りの先生は現副学長であった。私の採用責任者(審査委員長)だったが、どうも私とはそりがあわないらしく、何か用があっても、隣りの部屋にもかかわらず内線でしか私とコミュニケートしない人だった。その副学長が香川大学から私の割愛願いが出た後に、珍しく私の部屋をノックした。おそらく新任で赴任してきた時以来であろう。「吉田君、(転出を)考えなおす気はないかね」と彼は切り出した。「香川大学には私の院時代の友人もいるから、もっと早くわかれば手をまわせたんだが。」などと、翻意できないものか聞いてきた。無論、そんなことは考えられないと答えると、彼は安心したかのように「そうだよね。実は、N部長から君の転出を思い留まらせるよう説得してこいと言われてきたんだ。」と言ってそそくさと帰っていった。
その後、教授会で割愛が正式に決まった後にも「また部長から説得しろと言われたよ。君は随分とあの部長に気にいられているようだね。」と本気とも皮肉ともつかないような口調で言われた。N部長と会ったのはあの日だけ。どうしてそんなことを言われなければならないのか、いまだに不思議だ。
(2) このホームページが世間に知れはじめた05年2月末頃に市大教員組合の関係者から連絡があった。市労連の書記次長が、このホームページについて教員組合のコメントを発表しろと迫ってきているというのであった。市労連としてはこのホームページの内容が嘘であることにしたいらしく、教員組合の執行部としても対応に困っているらしいとのことであった。
 「私の方としては実際に経験したことを書いているだけだから、やましいことは何もない。もし御迷惑をおかけするようなら、お好きなように対応してくださって結構ですと、執行部には伝えておいてください。独法化を直前にひかえた大事な時期にお手を取らせるようなことになって申しわけなく思ってます」と連絡をくれた方に話しておいた。それから数ヶ月がたったが、何のアクションも教員組合は起していない。
 2005年2月25日付けのトップページに書いたことの裏にはこんなことがあったのだ。書いた本人に直接問いあわせたり、抗議したりするわけでもなく、もはや私とはなんの関係もなくなった教員組合に対して圧力をかける。それならうまく動かせるとでも思ったのだろうか。
これが市労連のやり方であり、二度とかかわりたくなくなる体質である。(05年6月14日追記)

II. 学長という病に進む
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