公立大学という病:横浜市大時代最後の経験


04/5/16:「日々の雑感」用に記す
04/9/29/:追記
04/11/6:追記および別ファイル化
04/11/17:「II.学長という病」追記
04/12/31:「II.学長という病」追記
05/2/18:「はじめに」追記
05/2/22:誤りを修正
05/2/25:「はじめに」追記
05/3/2:ファイル分割
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「公立大学という病」
目次

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更新雑記
  • 16/9/6 僕の勤めていた大学の宿舎で隣りに住んでいた文科省の天下り教授が、副学長として他の大学に移って大暴れしているということを知った。彼が研究や教育に従事しているという話を聞いたことはなかった。21世紀の大学が、研究や教育に直接かかわっていない行政マンに支配されるようになろうとは誰が予測していただろうか。公立大学の病は今や日本の大学の病となっている。

  • 09/12/22 「全国国公私立大学の事件情報」に掲載された首都大学東京労組の「手から手へ」第2542号によると、11/25付けで書いた仕分け作業での発言をしたのは首都大学東京の教授だったようだ。市大のあの人なら言いかねないと思って書いたのだが、しっかりした情報が入ってくるまで11/25の雑記はお蔵入りさせておこう。

  • 09/3/30 先日市大を去る友人の話を書いたが、昨日別の友人からも今月で退職するとの連絡をもらった。送られてきたメールには「大学の解体を妨げる最後にして最大の抵抗は、大学にこのまま居残って闘いを続けることでしたが、結局は当局の望むような方向に事が進んでしまいました。一緒に闘ってきた(…中略…)近しい仲間を半ば裏切るようで心境は複雑です」と書かれていた。
     私が退職して5年になる。手許に残っていた03年度の商学部教員名簿と現時点で市大のホームページに掲載されている教員名とを突き合せてみると、48名中21名*が市大を去っていた。ここ5年ほどで4割以上の人が辞めたことになるのである。当局の狙っていた人材の流動化はみごとに成功したようだ。
    *私が知る限りこの3月で2名の退職者が出るが、この2名を含んだ数値。なお21名中定年退職者数は6名ほどである。

  • 09/3/12 1年前に横浜市立大学を抗議退職された吉岡直人 先生が自費出版された『さらば、公立大学法人横浜市立大学:改革という名の大学破壊』(下田出版 ISBN978-4-902811-82-7)を入手し、早速読んでみた。この本の前半に書かれていることは自分も体験してきたことであるが、5年という月日のなかで忘れていた事件や人達を、その時感じた忌々しさをも含めて思い出させてくれた。また、本書の後半は、私が転出してからの出来事だが、陰鬱な気分にさせられるのに十分なものだった。
     本書を読むかぎり、市大は行政に乗っ取られることによって、とんでもないキメラになってしまったようだ。行政が狙ったはずの効率的管理が実現されているわけでもなく、自由闊達であるはず学者・教育者は後景に退き、上ばかりを向き「権力に阿る人間」が教員の仮面を被って闊歩している行政マンもどきの世界のようだ。廃校もありと脅した市長直轄の「あり方懇」で言われた人事における「公正な選考」とは、たとえ業績がなくとも権力に気にいられさえすれば、教授になれたり、学長や副学長になれたりすることだったらしい。教授会における人事の方がいかに「公正」であることか。
     是非、多くの大学人にこの本を読んでもらいたいと思う。自治破壊がどのようにして行われたかを知って欲しいし、また自治破壊後に来るおぞましい世界を知っておいてもらいたいからだ。
     この3月、友人がまた市大を去る。彼の3年ゼミには、私がお世話になっているAさんのご子息が所属している。私の退職の経緯を知っているAさんは、ご子息が市大に入った時、何故かそのことをすまなさそうに話してくれた。それから3年、私の友人が辞めることを伝えるAさんからのメールには「本人自身(Aさんのご子息:引用者注)も学校の体質(&中田市長)に疑問を抱いてきているようです。気がつくのがちょっと遅かったのかもしれませんが・・・。」と書いてあった。

  • 08/1/18 香川大学への転任が決まったのが2月半ばで、割愛が出たのが3月初旬。おそらくギネスものの遅さで、同僚や学生の方々には随分と迷惑をかけたことは今でも申しわけなく思っている。
     これに懲りたのだろう。法人化後の市大の就業規則では転任は半年前に申し出ることになったかのように聞いた覚えがある(その後の市大の情報はほとんどもってないので、間違っている可能性もあるが)。 今日、永岑先生のホームページをたまたま開いてびっくりした。学長が、任期途中で他大学に移るというのである。それもこの時期に。。。人のことは言える身分ではないが、あきれたとしか言いようがない。おそらくこれもギネスものだろう。
     ただ、今は現任校で5年前に経験したような学部解体の話がもちあがっており、とても他大学の話を笑っておれる状況ではない。他大学では既に失敗だったという声が聞こえてくる学類、学系なんていう愚かしい組織に、再編なんてまっぴら勘弁というところで、毎日が憂鬱である。

  • 06/11/15 横浜市大のTOEFL問題。遠く四国にまで聞こえてきているのだから、首都圏では蜂の巣を突いたような騒ぎになっていることだろう。
     さて、当時教授会で500点は厳しすぎると声をあげていた英語の先生(1年程前の雑記で触れた先生)が今年になって他大学に移られていたことを最近知った。確かその人はパーティーか何かの席で当時の理事長予定者にも諌言したが、まともに相手にされなかったと聞いている。それから2年半がたって、どちらの側に非があったのが明らかになった。
     と書いたところで、こんなブログの記事を見つけた。わけ知り顔で書いているようだが、大学を腐食させている奴らの底の浅さが滲み出ていて、いと哀し。TOEFL700点に象徴されるような改革に、いったいどんな理念があったというのだろうか(現在、上記ブログから当該記事は消さています。)

  • 06/7/2 市大教員組合の週報の最新号に教授昇進候補者と人事課との生々しいやりとりが掲載されていることを全国国公私立大学の事件情報によって知った。当局に対して任期付きの契約には署名できないことを説明する教員側の理路整然さと、答えられないことには沈黙で押しとうそうとする人事課長の小役人らしさをまじまじと感じとれる報告である。
     嫉妬まじりの皮肉な話をしよう。私が現在所属する大学では、学生による講義評価はあたりまえとなり、今年になってそれに基づいた昨年度の教育評価が実施された。加えて、今年からは研究評価、学内行政、地域貢献を加えた教員評価の実施に向けて着々と進んでいる。こうした「改革」の動きについては、様々な問題を抱えていることを言いたい気もするが、その判断についてはこの際さておこう。
     ところが、市大では数年前に事務サイドが法人化後実施すると言っていたはずの教員評価さえ、まだできていないということも聞こえてきている。これができなければ法人化2年目から実施するとした年俸制も絵に書いた餅になる。実際、先の記事の中では次のようなやり取りがなされている。
     「年俸」の額が具体的に記載されていたので、どのようにして決めたかと尋ねたところ、旧給与表の直近上位に位置づけたとの答えであった。そこで当方は、その額のままその後4年間上がらない(つまり据え置き)ということかと尋ねたら、そうだという答えであった。
     そこで当方は、それなら教員評価の結果がよくても悪くても増減なしということになるので、教員評価に関して人事当局が説明してきたことと矛盾するのではないかと主張した。
     全員任期制という、ありえない選択肢を選択したために、それ以外の「改革」を進めることが難しく、機能不全の状況に陥っているようだ。法人化以後、真綿で首を締められているような気になってしまっている地方国立大学の教員にとっては、ある意味うらやましいくらいだ(笑)。まるで「急進主義」的な「革命」の破綻を見ているようである。

  • 06/6/16 夕食時、たまたまフジテレビ系列の病院に関する番組を見た。非道い病院の実態を告発するとともに、患者が安心して診療を受けられるために努力している病院を紹介していた。そのなかには薬の受渡しミスを防ぐために4重ものチェックをいれている病院があった。薬剤師の人件費も4倍かかっているとのことであった。
     それを見ていて思い出したのが、市大を破壊した張本人である当時の総務部長の言葉。「医療の安全が優先しすぎて、経営にたいする感覚が薄らいでいないか」。この言葉は、そのお役人の暴言録にしっかりと記録されている。当時、市大病院では大きな医療過誤が起きてまだ間もない頃であった。この言葉を医療過誤の被害者や家族が知ったら、どう反応しただろうか。
     こんな不見識なことを平然と言う人が主導した市大「改革」。結果は見えていると言っても過言ではなかろう。そして時折聞こえてくるニュースでは、そのお役人は中田市長の下で順風満帆なキャリアを続けられているようで、横浜市政の行く末も同じであろう。

  • 06/3/31 全国国公私立大学の事件情報で、文科省が「公立大学の法人化を契機とした特色ある取組」という文書を出したということを知り、ちょっと見てみた。公立大学に対して実施したアンケートの結果をまとめたもので、ひどい改革がさも立派な「特色ある取組」であるかのように取り上げられている。当然のことだが、ここに書かれてある改革を契機にどの程度教員が流出したのか、偏差値がどの程度下がったのかなんて話は書いていない。
     ただ「法人化を契機とした取組は、各法人が中期計画等に基づき実施するものであり、以下に取り上げる取組を一律にすべて行うべきと考えているものではない」との思わせぶりな注釈が書かれていることにはギクッとした。これはやんわりと文科省が次の中期計画の策定にあたって国立大学も公立大学の取組を見習いなさいと言っているようなものだからだ。公立大学の惨状が今後、国立大学にも波及しかねないことを暗示した怖い文書だったのである。

  • 06/1/20 永岑先生のサイトで、昨年の9月5日の雑記で触れていた人が市大を離れることを知った。市大の現在の学部内構成がどうなっているのかは知らないが、少なくとも経営学系に関してはエース級と目されていた人の流出であり、今後、経営学系はどうなるのだろうか。

  • 06/1/19 全国国公私立大学の事件情報本日の記事に載せられたコメントは「横浜市大の破壊者中田氏、また出るのですか?。何ともしても落選させたいものです。」。御意。

  • 05/11/22  永岑先生のサイトに掲載されていた『市大教員組合週報』で、昇進人事において雇用契約は「新規契約」とされ、従って、昇進に際して任期を付けるとする方針がいまだ変っていないということを知った。今年3月末には昇進と任期制は切り離すという話が聞こえていたのだが、どうも前言撤回し、昇進の審査対象者に推薦された時点では任期付きに同意しなくてもよいなどとふざけたことを言っているとのことである。
     昇進の推薦から決定までの間に、「あなたのような優秀な人材には再任拒否なんてありえない」などと甘言で釣っておけば、それで口説けると思っているのであろうか。もはや他人事となったとはいえ、人を阿呆にするのもいいかげんにしろという感じの話である。
     本格的な全入時代を迎え、どの大学も生き残り策を教員・職員が一丸となって絞り出しているこの時期に、いまだ全員任期制に拘泥し、多くの人材を流出させている横浜市大はもはや滑稽とさえ言える。ニンマリしているのは周辺国公立のライバル校だけであろう。
     革新官僚を気取った地方公務員と、市大のことなど何も知らない御用「知識人」とが作った、誤れる方針に拘泥し、焦土戦が行われているのだ。その策定に関わったものが、誰も責任をとらないとあっては、まるで太平洋戦争時の日本軍だ。おまけに、ゴーサインを出したトップが、近衛文麿の孫の元秘書だったりするのだから、あながちこの比喩も間違っていないのかも知れない。
     市大を支えてきた「サイレント・マジョリティー」のなかで人心離反が進んでいる。その深刻さを当局は知らないのであろう。だから「中期目標・中期目標の大枠を理解していただくほかはない。それでも出て行かれるのなら止むを得ない」なんて言葉が学長候補者の一人からためらいもなく出てくるのだ。同窓生には申しわけないが、こんな風になってしまった大学を早く辞められて幸せだったというしかない。

  • 05/11/1 最近、複数の市大の関係者から、TOEFL500点をとらないと3年に進級できないとした新学部での方針が破綻しつつあるとの話を聞いた。まあ、無理もないであろう。TOEFLとTOEICの区別もついていない役人がつくった制度なのだから。
     市大時代の最後の頃に、新学部のカリキュラム作成委員として作業にたずさわらされていたとき、上(現副学長と当時の企画課長)からの方針だとして、TOEFL700点以上でないと進級させないという案が下りてきた。委員一同、唖然とした。600点で米国の一流大学もパスできるといわれるTOEFLで、700点はありえない。これはTOEICの間違いのはずだ。ちゃんと確認してくれと皆が騒いで、次回にはTOEFL500点に訂正されて帰ってきた。市大生なら500点位は大丈夫かなと思っていたのだが、教授会か何かの席で、英語の先生が、「500点だって留年する学生が多数でるだろう」と反対の声をあげていたのも覚えている。
     大学教育や、市大生の水準とかを全く知らない連中が作った案が、中期目標や中期計画として大学に押しつけられる。確か、TOEFL700点をぶちあげた役人は、その後水道局あたりに栄転されたそうだ。奴らは中期目標を達成できなかったとしても責任を問われることもない。大学の教員にその尻ふきをさせればよい位にしか思っていない。なんともお気楽な商売だ。
     現在、市大では学長選考が行われているらしい。ただ誰が候補者になっているのか教員も噂でしかわからないとのことである。大学教育の現場からかけ離れた密室で決められた学長は、現実の世界で起こっていることの責任をとることができるのであろうか。

  • 05/9/24 先般、都立大学前総長である茂木俊彦氏の『都立大学に何が起きたのか』を読んだ。大学トップとしての立場から都庁による都立大学の解体を記録した貴重なドキュメントであり、大学管理本部と都立大トップとの熾烈な交渉・駆け引きがとても興味深かった。
     「われわれの上のほうも、おこっているのですよ」(p.40)という大学管理本部長の言葉を読んだとき、思わず苦笑してしまった。私も人事課長から同じような台詞を聞いたことがあるからだ。おそらくそれは役人特有の言葉遣い・恫喝なのであろう。
     行政主導で実施された都立大学解体は横浜市大と相似をなしているのであろうが、一つだけ異なる点がある。それは、大学のトップが行政にとった態度であろう。このことは既に当時から言われていたことでもあったが、このブックレットを読んで再認識させられた。
     大学管理本部が主導する大学破壊に茂木総長が大学人としての筋を通した声明を出して抗ったのに対して、市大の前学長は「市長とは人格と人格のやりとりでまとめた改革案」(『東京新聞』04年4月20日)などと平然と言い、首長に対して媚びへつらう態度に徹した。市大前学長のことは「学長という病」に書いたので、ここでは書かない。
     中田のポチとして大学自治を蹂躙した彼が図書館長を勤めるという某市立図書館に、このブックレットは入るのであろうか。今は遠方にてそれを確認すべき手段もないが、もし入っていないようであれば、前学長氏宛でこのブックレットを送ってあげたいという気もする。

  • 05/9/5 「大学は建物ではない」。これは20世紀を代表する経済学者の一人であるシュンペーターが、戦前東京商科大学(現一橋大学)を訪問したときに述べた言葉といわれている。美しいロマネスク様式の建物群に嫉妬して出た言葉なのだという説と、まだ荒涼とした武蔵野の寒村に移ったばかりの大学に連れてきたことについて気にしている大学関係者を気遣って述べた言葉だという説がある。
     さて先週末、市大時代のゼミの卒業生たちと同窓会をした。この時にふと思い出したのがこの言葉であった。同窓生に再会して、皆マインドが非常に高く、見識の高い人たちであることを再認識したからだ。残念ながら横浜市大商学部はなくなるが、彼・彼女らがその看板を背負って活躍してくれるはずだ。空間的な場ではなく、人のつながりのなかにこそ大学はあるのである。ふと、そう感じさせられたのである。
     同窓生たちは市大の今後を心配しており、私にどうなるのかを尋ねてきた。私自身は、市大とはもう縁がなくなっているにもかかわらず、悲観的な話しかすることができなかった。商学部がなくなって国際ナンチャラ学部になったこと、今後10年は冬の時代が続くであろうと。何故か。
     この夏、ある市大の先生と話をする機会があった。その先生は学生にも人気があるし、また市大生を愛している先生でもあった。私が市大を辞めるに際して呑んだ時も、「市大の学生はレベルも高く、教え甲斐もあるから、僕は当分辞めるつもりはない」とまで言っていた先生であった。その人が、1年程経って、「もう市大にコミットメントする気がなくなった」と言うのである。任期付き教員が基本という路線に変更がないことが、その最大の理由だとのことである。たとえ確実に再任されるにしても、任期付き教員になるリスクを考えるならば、別の大学に移った方がよいと判断したようである。彼こそこれからの市大の再建を担っていく人の一人だと睨んでいた私にとっては、ここまで人心離反が進んでいる状況に少からずショックであった。
     また、別の市大の先生は「日本の大学のためには市大を潰す必要がある」とまで言っているとの噂を耳にした。容易には首肯できるものではない。しかし、官僚支配という負の資産ばかりが膨らんでいる状況を聞く限り、あながち間違っていないと思わざるをえない。同窓生の諸君には申しわけなく思うが。。。
     大学という現場は、教員、職員、学生の三つの緊張関係から成り立っており、それが維持できなくなると大学はすさんでしまう。今、市大が直面しているのは、現場から離れたところにいる企画系職員による独裁体制である。実状を無視した奴らのやり方をつきつめていくと、まさに建物しか誇れない大学になってしまうであろう。既に奴らが作成した英語教育のプランは崩壊しているらしいことを読むにつけ、また都立大で起ったことを現場の職員が暴いたblogを読むにつけ、その意を強くせざるをえない。後者のblogには都の大学管理本部が現場を無視して大学を壊していく様子がまざまざと描かれている。
     最後に。同窓生に言ったことを一つ忘れていた。何よりも市大を救うためには、中田市長を落選させることが必要であるということだ。同窓生らは笑っていたが、これができなければ中田チルドレンによって本当に市大は沈没させられたままの状態が続いてしまうであろう。

  • 05/7/30 日本学術会議の学術と社会常置委員会報告「現代社会における学問の自由」においては、まさに本サイトの主題である公立大学の病が端的に指摘されている。引用魔で知られる永岑先生も当該箇所についてはお気づきでないようなので引用しておこう。
    一般にわが国の地方公共団体においては,国立大学における文部科学省や私立大学における理事会のような,大学問題を第一義的・恒常的に考える場が存在しないか,存在してもその力は弱く,日常的な運営は大学自体に委ねられてきた。一方,大学に対する施策や財源は,選挙により交替する地方公共団体の首長の見識,並びに変動する財政事情によって左右される傾向が存在する。こうした傾向は国立・私立大学の場合にも無いわけではないが,公立大学の場合はその程度が著しく,その帰結の一端が現にいくつかの大都市公立大学の改革過程で生じている教員の流出などに現れているといえよう。(8〜9頁:強調は引用者)
    「首長の見識」を敢て取り上げているところが注目される。せんじつめて言えば、「いくつかの大都市公立大学」では「財政事情」に加えて「首長の見識」に問題があったから、「教員の流出」が生じたということになるからだ。
    市大で闘っている方々には日本学術会議という協力な援軍がついたようだ。これへの当局の抗弁がみものである。

  • 05/7/9 今週、私の現在所属する大学で新学長の選出が行われた。法人化後、学長は学外者を含めた学長選考会議で決定されるため、従来の学長選挙は意向聴取投票に格下げされた。しかも香川大学では、その投票結果さえ発表しないという申し合せがなされていた。前任校の最後の頃のように学内民主主義がないがしろにされていくのではないかという危惧を抱いていた。
     学内からは批判の声もあがったが、そうした批判も無視されて、学長選考はその申し合せ通りに実施された。幸いにも、意向聴取投票でトップだったと噂された候補が次期学長に指名されていたが、その候補の得票数や、次点の候補との差はどうだったのかは明らかにされなかった。まさに密室で決められた形となった。
     ところが、翌日マスコミから手厳しい批判記事を書かれ、あわてて方針転換をしたようだ。世間からの指弾を受け、まだ軌道修正を行う程度の判断能力が残っていたとみるべきか、それともただただマスコミによる批判が恐いだけだったのか。いずれにしても、マスコミに批判されて、ヒステリックな反批判で答えたり、「嘘」をついてきたどこぞのトップよりも、まだましであることだけは確かなのだが、しかし民主主義も随分と心もとないものとなってきたものである。

  • 05/6/14 少しだけ「I. 市労連という病」の「後日談」に追記。こっちに書いてもよかったのだが、後日談ということで最後のところに追記しておいた。

  • 05/4/8 同じこの4月に地方独立行政法人化した二つの公立大学の学則で、大学の目的を定めた箇所(第1章第1条)を掲げておこう。
    横浜市立大学は、発展する国際都市・横浜とともに歩み、教育に重点を置き、幅広い教養と高い専門的能力の育成を目指す実践的な国際教養大学として、教養教育と専門教育を有機的に結びつけ、国際都市横浜にふさわしい国際性、創造性、倫理観を持った人材を育てるとともに、教育・研究・運営が、市民・横浜市・市内産業界及び医療の分野をはじめとする多様な市民社会の要請に迅速に応えることを目的とする
    大阪府立大学は、国際都市大阪における知的創造の場として、学術文化の中心的な役割を担うべく、広い分野の総合的な知識と深い専門的学術を教授研究し、豊かな人間性と高い知性を備えるとともに応用力や実践力に富む有為な人材の育成を図り、もって地域社会及び国際社会における文化や生活の向上、産業の発展並びに人々の健康と福祉の向上に貢献することを目的とする。
    あまりの違いに唖然とする。市大の学則は、大学から自由な研究を放逐しようとしてきた行政マンの勝利宣言である。
    目的の前段部分からは研究という言葉が削られている。「大学」と名付けられていることに研究がほのめかされているに過ぎず、学校教育法にまで遡及しなければ研究は担保されないことになる。研究は目的から残余になってしまっているのだ。また後段は、その残余としての「研究」さえも限定的たらざるをえないことを宣言している。市大で行う研究のプライオリティは、学問そのものの内在的評価にあるのではなく、「市民社会」=外部社会における直接的な功利性に基くということになるのである。研究の判断基準に外部の価値を置く市大のこの学則は、行政が大学に容易に介入できる枠組みを提示しており、行政による大学支配を象徴する条文となっているのである。(4/10追記)

  • 05/3/27 昨日まで横浜に滞在しており、市大の先生や職員の方と話をする機会があった。教員の方々は、私の予想を裏切り、随分とはつらつとしているように見えた。
    教員組合が明らかにしたように、金沢八景キャンパスの教員の50%以上が任期制には同意できない意志表示として組合に委任状を提出している。また委任状を提出しないが同意書も当局に提出しないという人も多数いるらしい。当局が目指していた独法化に際して全員任期付き教員にするという無知無謀な方針は明確に頓挫した。当局は思い付き的な弥縫策を次々に出しているが、その結果、自滅への道を歩んでいるようだ。この一週間で新聞記事にいろいろと取り沙汰され、その無謀さが世間に知られたことも当局にとっては痛手であろう。だから対抗する教員にも勢いが感じられるのかもしれない。
    高松に帰ってきてから知ったが、当局は任期なし教員にも昇進を認めるとしたとのことだ。この撤回が意味することは大きい。任期付きにしぶしぶながら同意書を提出した助教授以下の人達も、誤った情報に基づいたものだったとして同意書を撤回すべきであろう。今は教員が一体となって動くことが重要だ。なによりもそれを当局は恐れているからだ。四月以降は、残業、休日労働、裁量労働制等、教職員の同意なしには実施できないことが目白押しだということに当局は気づきはじめたのかもしれない。

  • 05/3/23 22日付け毎日新聞神奈川版、23日付け東京新聞が独法化直前で混乱している市大を取りあげていることをネットで知る。特に東京新聞は、昨年「改革」について批判的に論じ中田市長を激怒させたにもかかわらず、再度批判的観点から舌鋒鋭く伝えている。きちんと中田市政下の問題伝えてくれるメディアがあるのは、本当にありがたい。
     多くのメディアが石原都政、中田市政の翼賛メディアとなり、世間受けするイメージだけを伝えている。特にテレビ朝日のサンデー・プロジェクトはひどい。あまりにも無批判にすぎ、再選のためのプロモーションビデオを見ているかのようだ。しかし、多くの国民はそれを信じている。現場から遠く離れた地方に住むようになり、私にはそうした現実がよくわかるようになった。対抗的メディアが地方には存在していないのである。
     同記事中に、この改革に「体を張っている」という役人の言葉が出てくるが、改革のしわ寄せは全て教員に向う。実際、改革の余波で定員割れとなった大学院の入試(二次募集)が先週の土曜日に行われたが、当日サポートする事務職員はほとんどいなかったと伝え聞いている。決めるのは役人、ツケは全て教員にということであろう。
     永岑先生のホームページで、市大在籍時随分とお世話になった事務職員の方の定年退職を知る。市大の卒業生でもあり、長きにわたり商学部の事務を実務面から支えてきた方だ。氏の本年度での退職は、一つの時代の終焉を象徴するかのようである。

  • 05/3/19 任期付の雇用契約への同意書の締切日が来週火曜日に迫り、一つの山場を迎えているようだ。昨日の更新雑感にも書いたように、当局は任期付きに同意しない教員への雇用・研究・教育条件の悪化を謳った文書を出して、教員を追い込もうとしている。任期付きを選ばないのであれば、相当の嫌がらせや不利益を覚悟しなさいよと脅した文書である。
     にもかかわらず、ある人からの情報によれば、教員組合には相当数の委任状が集まってきているらしい(聞いた範囲では、その数は当局に誇示できる規模に達しており、本来ならば組合がその数を発表すべきだとも思うが、何らかの戦術上の理由から発表していない可能性もある。したがって、ここでの深入りは避けておく)。4月1日以降の闘いを進めるためにも是非、一人でも多くの教員が組合に委任状を出すことを望む。
     他方で、新体制の下で要職に就く教員たちによる切り崩しも進められているようだ。医学部では教授によって同意書が配下の教員に配られたことが知られているが、他学部でも有力教授の権力を用いた同意書提出の圧力がかかってきているという噂を聞いた。
     委任状はまさにこうした個人的圧力を跳ね返すためにある。もし市大教員の方で不安を感じている人がいるならば、かつて組合が行った「自らの雇用を守るためになすべきこと」(第1弾第2弾)をも読んで、その対応を考えてもらえればと思う。

  • 05/3/18 横浜市大の最高経営責任者の名で出されている「任期制運用の基本的な考え方について」という文書を一瞥した。何故、任期制を導入すれば教育や研究が活性化するのか、なぜ教員等の交流の活性化が促進されるのか、説得的な説明は何もない。ただ任期に同意しなければ差別しますよという宣言がなされているだけである。争議権が否定されている公務員だからこそ、こんな無茶苦茶な案を押し付けてこれるのである。
     「普通にやっていれば再任される」制度というのは噴飯ものだ。そのように考えているのならば、「期間の定めのない」雇用とするのが通常の雇用の考え方である。しかし何らかの理由で市大には任期制が是非とも必要だというのであるならば、その理由こそが語られなければならない。それが経営責任者としての説明責任であろう。しかし、それはまったくなされず、脅迫めいた説明があるだけだ。
     また「任期制は、任期の期間の雇用を約束するもので、教員のリストラを第一義の目的としたものではありません」と書いてある。文の前半はあたり前のことを書いているだけだ。三年契約とは三年間の雇用を約束するだけだ。どういう文脈で、文の後半につながるのかが、まったく理解できない。
     そもそも任期制とは「任期を超える雇用の約束はできない」というのが本旨である。だから、リストラを「第一の目的」としていなくても、たまたま再任の時期とリストラの時期とが重なったということで、再任拒否される恐れがある。この場合でも、再任拒否に対しては抗うことは難しい。世間で増えている有期雇用とはまさにこの論理に基いているのである。それが任期制=有期雇用の法理であり、だからこそ簡単にリストラの道具に転じるのだ。今後市からの繰り入れ金が13億円以上の削減を予定されていることを勘案すると、当局の言い分は随分と怪しいことになる。
     また「リストラを第一義の目的としたものではない」とすれば何がその目的なのか。本文中に多用されている「教員評価」や「大学全体」という言葉を踏まえると、教員の統制である。大学のあり方について異議を唱える教員を抑え込むのがその第一目的ということになろうか。「任期制は、教員に四の五の言わせない教員統制が目的で、教員のリストラを第一義の目的としたものではありません」と書きたかったのかもしれない。役人大好きの、モノを言わせなくさせるシステムを構築する手段として任期制を導入しようとしているのであると見て間違いなかろう。

  • 05/3/17 永岑先生のホームページより小川学長に対する名誉教授授与が評議会においても否決されたことを知った。そこに掲載された一楽教授の記録に基づいて私なりの解釈を書いておこう。
       行政サイドの意向から小川学長に名誉教授の授与が進められた線が読みとれる。私自身は今年9月に小川学長は実質学長職を解任されたとみている。しかし、当局の線に沿った「改革」を墨守した学長をどう遇するかは、当局にとっても大きな課題であろう。その功労を犒う必要がある。
     巷で言われているような解任ではないことを示すには、市大学長職よりも高位の役職を与えるか、円満なリタイアを演出する必要があろう。
     四月以降にならないとその最終的な判断はつかないが、市としてもっとも安あがりなのは後者であり、その誠意の示しどころとして名誉教授授与という選択肢が選ばれた可能性がある。伝えられているような大袈裟な投票の仕方は、当局の意志を評議員に伝えるのには十分な演出であろう。にもかかわらず、評議会では否決されてしまった。当局はどんな誠意を学長に提示するのであろうか。なんらかの名誉職を与えないと「解任」だったことを公に認めたことにもなりかねない当局にとって、今回の否決は頭の痛いところであろう。
     迷惑を顧みず、もう一つ書いておくとするならば、今回の否決のキーマンは議長であったような気がする。推薦者となっていたにもかかわらず、否決の結果が出た開票後の潔さは、出身学部を潰された彼の面従腹背の表れであるように思える。あまりに失礼な解釈であろうか。

  • 05/3/11 このホームページは忸怩たる思いで公開している。私にとって市大というのは、単なる前の勤め先というよりも、「母校」のようなものである。大学教員としてのイロハをこの大学で学ばせてもらったからだ。その大学について、辞めた後でも批判を続けるのは浅ましいことかもしれない。
     退職前には、外からこの「改革」の問題を告発してやるという意気ごみを持っていたが、実際に退職してからはその気持ちも萎えてしまった。辞めた人間が四の五の言うのは美しくないからである。だから下でも書いているように、この文書は精神的なリハビリで書いたのであり、「うのき」さんに見つかるまでは大っぴらにはせず、ただ気がついた人に読んでもらえればという気持ちであった。
     しかし、一旦公になったからには様々な力学が働く。まだ書くことはできないが、事務サイドや市労連の反応も聞こえてきている。そんな話を聞くと、亡命者通信を書いてような気分さえなるが、本当のところは負犬の遠吠でしかないのだ。自分の美意識的にはせこく難を逃れた小市民として静かに田舎生活に埋没すべきと思っているのだが。。。
     辞めた人間が現場のことを顧みず好き勝手言いやがって、と元同僚のなかには眉を顰めている人もいるだろう。そう思っている方には頭を下げるしかない。
     さて、伊豆先生の掲示板での「うのき」さんによる書き込みが、一年前の市議会の茶番劇を思い出させてくれた。当時、この議会でのやりとりを知って歯軋りするような思いになった。役人より仕入れたネタで好き勝手のたまう市議会議員に、学長や事務局長の教員についての偏波な答弁。まさに市大教員にとっては恥辱の日と言ってもよいであろう。
     今回、改めてそのときの記録を見て気がついた。答弁に立った大学側の人たちのほとんどが、この四月には市大にいないのである。ここにも、この「改革」の問題の一端が示されているように思えてならない。

  • 05/3/8 国際文化学部の川浦先生のblogが更新されていた。学生の記事に異を唱える短文からは、先生の無念さが痛いほど感じられる。それにしても同記事で「ゼミの改廃は改革の前からあった」と平然と語っている改革担当の職員にはア然とするばかりだ。流出する教員数の問題をすっぽりと抜かして回答している。官僚的開き直り答弁の典型だ。学生の記事もそこを突っ込む必要があったのではないか(全体としてはよく書けているとは思うが)。市大からどれほどの教員が流出しているかを御存知ない方は、是非佐藤先生の検証で確認いただきたい。
     さて、数ということで思い出した。あまり話題になっていないようだが、市からの運営交付金は7億円の削減になるとも聞いている。教職員の人件費に換算すれば70〜80人規模の削減にあたる。独法化で高額な報酬が予想される理事長や理事を抱えることになることもあわせて考えると、いったいどこにそのしわ寄せがいくのであろうか。かつて総務部長の放言録には市大病院は「安全が優先しすぎて、経営にたいする感覚が薄らいでいる」というトンデモ発言があったが、大学病院予算から7億の金を引きあげるというのではなさそうである。他人ごとながら気にかかる。
    ある方より市大のホームページに予算が掲載されているとの連絡をいただいた。やはり、大学だけ(病院を除く)で約7億円強(8.5%)の削減となっている。また今後5年間で約6億円強を減額するともしている。法人化された国立は1%の効率化係数による削減だけでもヒイヒイ音をあげているのだが、そんなことは我関せずの削減の仕方だ。おそらく市長の再選を見据えた実績作りだろうが、まさに無謀といえる予算カットで確実に大学の研究・教育の劣化は免れえない。その被害を被るのはいったい誰なのだろうか。

  • 05/3/5 昨日の教授会の合間にこのホームページを見たという同僚の先生から声を掛けられた。「本当に酷いですね。まるでファシズムですね。どうしてもっと新聞なんかで取り上げられないんですかね」。続けて、その先生曰く。「日経なんて、任期制をやたらと持ちあげているけれど、それを書く記者は任期制とは無縁なんですよね。そんなに良い制度というのなら、自分たちが任期付きで働けばよいのに」。全く同感で、もはや付けくわえる言葉はなかった。
     何よりも理解してもらえる同僚が同じ学部にいることを非常にありがたく感じた。というのも、一年程前、傷心を抱えて赴任してきたばかりの頃に、嫌な出来事を経験したからだった(今思えば、それがこのホームページを作る切っ掛けになったのかもしれない)。その嫌な出来事については、当時、掲示板に「馬鹿の壁」と題して書いたのでここには記さない。
     さて、昨年まで都立大・都立短大の組合委員長だった人が、「都立4大学の改革を巡る経緯について、石原ファシスト都政との戦い」と題して転任先の東北大学で講演するとのことだ。公立大学を襲っている病は、ともすれば他所事で終りがちな話だが、しかし、早晩、国立大学にも波及してくるであろう。地方独立行政法人法の付帯決議(1)にもかかわらず、文科省は公立大学における大学自治破壊に対してほとんど措置も行わなず、自治体のしたいがままを容認したからである。
     ここからは脱出者の嫌な言葉使いにならざるをえないが、どのように公立大学の自治が自治体によって破壊されたのかを学習することによって、自治破壊が国立にも波及することをくい止める方策を考えねばならない。国立は国立で大変である。真綿でゆっくりと首を締められているような気分にさえなる。これは赴任して実感した。
     しかし、公立のように有無を言わさず銃殺されようとしているわけではない。まだ様々な選択肢が残っているはずだ。その方途を考える上で、自治破壊の手法を学んでおくことは非常に重要である。「馬鹿の壁」を壊す意味でも有意義な講演会となろう。開催後には是非ともネットで講演内容を公開していただきたい。
    (1)衆議院の付帯決議では国が「公立大学法人の設立に関しては、地方公共団体による定款の作成、総務大臣及び文部科学大臣等の認可等に際し、憲法が保障する学問の自由と大学の自治を侵すことがないよう、大学の自主性、自立性を最大限発揮しうるための必要な措置を講ずること。」と定めらている。

  • 05/3/4  昨日、最後の定例教授会を終えた前任校の元同僚の先生に電話した。先行きの不透明さのみならず、研究者としての定常的な仕事さえままならなくなってきた状況に憤っていた。いろいろな噂が飛びかい、一筋縄ではいかない状況を語ってくれた。随分と精神的に疲れているようでもあった。
     この逆境を打破するためには、教員が結束して対抗していくしかない。多くの教員が教員組合に委任状出し、独法化後を睨んだ交渉力をデモンストレーションすべき時期なのである。一人でも多くの教員が組合に結集することを願う。
     さて、彼によると学長をとんと見かけなくなったとのことである。三学部解体という歴史的使命も終ったところで、もうさっさと過去の人物になってしまったようだ。とはいえ、多くの市大教員を不幸に追いやった人物が、あとは悠悠自適の引退生活に入るとすれば許し難い。彼も同じ気持ちらしく、ある評議員経験者の言葉を教えてくれた。「学長は万死に値する。」
     適切な表現かどうかはさておき、関係者の偽らざる思いであろう。

  • 05/3/2 長すぎるという声がちらほら聞こえてきたので、弥縫策的に文書を分割した。なお、当分、「III.役人という病」は着手する予定はない。なにかあれば、この更新雑記の中で表明していきたい。
     今、市大では教員説明会が行われているらしい。永岑先生のホームページを読むと、その場を支配している重い雰囲気が伝わってくる。無理無謀が声高に叫ばれている状況は、思い出すだけでくやしくなる。ただ視点を変えれば、一歩前進だとも言えなくはない。
     それは当局がとうとう「全員任期制」での独法化を諦めたことを表明したからだ。「任期制に移らないと昇進はさせない」という暴言は、全員任期という無謀な方針を公式に断念したということの別の表現である。断念を公に認めたうえで、不当な差別待遇、労働条件の不利益変更を実施するとほざいているのである。これまで当局が任期制以外のオプションを頑なに示してこなかったことからすれば、大きな一歩である(就業規則等で全員任期が無理だということを前提とした書き方が随所には見られていたが)。変な表現だが、これでようやく都立大・首大レベルになったということだ。
     少くともまず教授レベルは全員、任期拒否が可能だ。あとは助教授、講師も含めて全員(多数)がまずは任期拒否で独立行政法人に移行し、不当な処遇条件の撤回を求める運動を組めるかどうかだ。軽率なことは言いたくないが、そうなれば勝算は高い。公務員の枠組みを離れるということは、今までとは異なり、労使の実質対等という立場で交渉が可能となるからだ。雇用条件に関することに限れば、三六協定締結の拒否、地労委への提訴、ストライキ等々の戦略も視野に入れた取り組みが当然目指されることになろう。
     逆説的な表現にすぎるかもしれないが、今回の説明会での発言は、実現不可能なことを妄言してきた当局が、教員側の力によって、とうとう現実を認めざるをえなくなったことを意味しているのだ。

  • 05/2/25 この文書が大っぴらになって、いろいろな人が読みにくるようになった。また今日は大学時代の先輩稲場振一郎氏のblogにリンクされたこともあって、アクセス数も随分と増加した。ただ、横浜市大問題を知らないという人も増えているだろうから、初めてこの話を知ったという人はまずは第三者が書いたこの記事を読んでおいてもらえればと思う。また私のように陰鬱な批判ではなく、ウィットに富んだ批判ということでは是非こちらのサイトをお勧めする。教員が書いているのか学生が書いているのかは謎だが、軽快な文体で当局を皮肉っている。
     さて敵方の関係者も随分と覗いているようで、私に裏切られたと思っている人がいてもおかしくはない。人事や市労連の連中とも愛想よく笑顔で接し、「楽しく」酒を酌みかわしたこともあるからだ。しかし、その笑顔は奴隷の笑顔であり、彼らと人間的な関係にあったからでは決してない。その時、付きあっていただいた方はくれぐれも誤解しないで欲しい。あなた方から情報を取るのが私の仕事であって、それ以上でもそれ以下でもなかったのだ。これ以外に、凌辱されている者が凌辱している連中に対して、どんな意味で笑顔を見せることができようか。
     また、ここに書かれていることは「嘘」であることにしたい人がいるらしい。先日この文章は「自己満足的な性格を多分に帯びたもの」だと書いたが、それは凌辱された者の感情が随分と移入されているという意味であり、ここに書かれた出来事が私自身の経験した事であるということにかわりはない。嘘は交じえていない。実際に起ったことと、それに基づく自分の判断を記しているのであり、当時の親しい人には既に話してきたことでもある。ここに書いてあることが嘘だと言うのであれば、姑息なことなどはせずに、きちんと私に抗議すべきであろう。私は連絡先も公開している。間違いがあれば訂正するのは吝かではないし、実際に訂正している。
     もう一度書く。横浜市大の「改革」は、市長の号令よろしく、小役人たちがアカデミシャン苛めにいそしむ究極の形でのアカデミック・ハラスメントである。地方役人が、大学人から研究の自由を奪い、彼らの雇用をもて遊んでいる。都立大も横浜市大も構造は同じであり、それが地方の公立大学にも広まっている。まさにこれこそ公立大学の悲劇であり、病である。
     現在、横浜市大では、教員から任期付きの同意をとろうと、小役人たちが手練手管をつかっているらしい。「任期付きに同意しないものは、新法人の方針に異を唱えるものだから、それ相応の覚悟をしておけ」というようなことが言われているとも聞いた。市大で呻吟に喘いでいる先生方、絶対に脅しに屈伏しないで欲しい。現在の日本において「期限の定めのない」雇用ほど、解雇のしにくい雇用形態はないからだ。敵前逃亡をした私にそれを言う資格はないが。。。(05/02/25)

  • 05/02/18 これまでこの文書は余り大っぴらにせずにきたのだが、「全国国公私立大学の事件情報」という有名ブログに取りあげられためアクセスが急増している。伊豆利彦横浜市大名誉教授の掲示板と佐藤真彦横浜市大教授のホームページを経由して伝播したようだ。影響力のあるサイトの威力を今さらながらに思い知らされた気がする。
     さて、多くの人の目にとまるようになり、困ったことがある。この文章はグロテスクなまでに感情を吐露した文章であり、随分と下品な表現で書いている部分も多い。大勢の人に読んでもらうために書いたというよりは、多分に自分の精神的なリハビリをかねて書いたものだからだ。市大の「改革」とは私にとっては悪夢以外の何ものでもなく、市政によるアカデミック・ハラスメントであった。随分と精神的に痛めつけられ、今の大学に転任してからも、すぐには立ち直ることができなかった。あまりにも置かれている状況の違いにとまどい、気持ちの上でなかなか新任地に適応できない日々が続いた。そのため書くことによって気持ちを紛らわしていたのである。
     そんなグロい文書を読んでも共感してくれる人は少ないだろうし、また関係者に迷惑が及ぶかもしれない。こんな理由もあって大っぴらにはせずにきたのだ。とはいえ、既に多くの人の目に触れてしまった。表現上直すところは直し、手を入れなければならないのだが、そんな時間的余裕も気力も今はない。だから、これから読まれる方は、この文章が自己満足的な性格を多分に帯びたものだということを念頭に置いて読んでもらえればと思う。



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