II. 学長という病

04年9月、市大独法化後の学長は米国人になるということが発表された。このニュースの意味することは現学長の解任である。独法化時点で現学長の任期はまだ1年残っており、それを全うせずに職を降ろされることになるからである。現学長の残りの任期を勘案して、市大独法化の定款ではわざわざ最初の学長の任期を1年としていたにもかかわらず、その飴玉をもらうことはできなかったのである。当局も誠にシビアで、ただロボットのように当局の言い分を繰り返すだけの無能な学長は、もう用無しだということなのかとも思う。ある市大の先生は、「次がどのような学長であるかはさておき、現学長が独法化後の学長にならないのはざまあみろという気持だ」と語ってくれた。
 確かにその通りであるが、しかし民主的なプロセスを経て選出された学長が解任されるということは、法人化前後で制度的連続性を一片たりとも残させないということになる。独法化された国立大学でも学長選考会議が組織され、この会が学長を最終決定することとなっている。しかし、旧来からの学長選出手続きをふまえ多くの大学では意向調査として学長選挙を実施するようだ。それは独法化前に選挙で選ばれ学長が、独法化後の学長となっており、旧制度との連続性が実質的に存在しているためだと考えられる。形式的には学長選考会議が学長を選ぶが、実質はできるだけ大学構成員の意思を反映させるような工夫といえる。しかし横浜市当局は、小川学長を解任することによって、形式的にだけでなく、実質的にも連続性を断ち切ることを選択したのである。
ただし大学において随分温度差はある。私の赴任した香川大学は意向調査の結果を発表せずに、学長選考会議が密室で学長を決定することになったようで、学内民主主義を形骸化させようとしてる。はたしてこれは正しいことなのだろうか。教員の支持を得られないままで学長が選ばれて、本当にリーダーシップを発揮できるのだろうか。噂では企業出身の理事らが強固に主張したという。これが事実だとしたら、なんとも悍しい話ではないか。
 さて、小川学長というのはリーダーシップがあるとか、トップダウン・スタイルのきわめて強圧的な人なのかと聞かれれば、とてもそういうタイプの人間ではないと答えるしかない。少し話しをすればわかるが、すぐれて温厚で、紳士的な人なのである。しかし、これに騙された。騙されたというのは、このことが民主的で話しあいを重視して物事を進めていくことを意味しているわけではないということである。実は、この品の良さとは、声の大きな人間や強い人間にさからうことのできない小市民性の裏返しでしかなかったのである。市長の意向に沿って市大の自治解体を狙う事務員にとって、とても使い易い存在であったのだろう。恐面の役人にかかれば可愛い子羊のようなものだ。実際、02年度の評議会で職務放棄をした総務部長に対して毅然とした態度を取れず、喧嘩両成敗にもならないような決着をした。そして、市大廃校という脅しの下に、市の言うがままに行動したのである。恐くて恐くてしかたがなかったのだろう。時折、電車の中で見かけた学長はおどおどと何かを恐れているような感じさえした。だから、こんな危機の時代に、絶対にトップに立ってはいけない人間だったのである。都立大学の総長のように毅然と大学の立場を示し、市当局と対峙したならば随分市大の状況も変っていたかもしれない。メディア受けを第一とする市長は、都立のように首長対大学という構図になることは絶対に避けたかったからである。学長がリーダーシップを発揮し、毅然とした態度を貫けていれば、こんな無惨な形にはならなかったであろうだけに残念だ。
 小川学長の小物ぶり示す別の逸話がある。事務局主体の改革案が出た後で、理学部および理学研究科に対してだけ学長自ら出席して説明会を開催したことがある(03年12月頃)。この説明会の開催にあたっては、理系の教員が理学研究科出身の学長に「せめて身内くらいにはあなたが直接出てきて説明すべきだ」と口説いたらしい。これに対して学長は他学部の先例にしないという条件で受けいれたというのだ。このことを04年1月の組合総会後の懇親会の席で、口説いた方がさも手柄のように言うのを聞いた。私はそれは問題ではないかと噛みついた。実際、説明会では理学研究科科長が「他学部の先例にしない」と宣言しているのだが、それは僭越な行為でないのかと。他学部と学長との関係で決めることであって、理学研究科の意思で決めることではないのである。どうして理学研究科・理学部にそんなことを決める権利があるのか。
 しかしもっと問題なのは、何よりも全学的な問題を「身内」意識で処理しようとする姿勢である。文系研究者のなかでは、赤字の言いがかりを付けらたのは彼ら理系、とりわけその拡張主義のせいであるという批判がいたるところでささやかれていた。私自身はこうした批判に組みしたことはないが、しかしこの時ばかりは、いわば市大解体を招きいれたその張本人たちが、内輪だけで議論すればそれでよしとする発想にたっていたことが許せなかった。また、学長も学長だ。大学が「生まれ変わる」位の大きな改革(=3学部の解体)をしようというのであれば、学長自らが全ての学部に足を運びその説得にあたるというのが筋ではなかったのか。むしろもっとも手強い敵陣に自ら乗り込み、その正しさを主張し、納得させるべきではなかったのか。改革の案の中身に自信がないのか、それとも自分に自信がないのかはわからないが、身内にしか説明会を開催しなかった小川氏は、トップに立つには相応しくない人材であったことを如実に示している。
 私は小川学長と話をしたことは3〜4回ほどしかない。そして組合書記長という立場で交渉をしたこともない。だから学長は私のことを覚えてもいないであろう。最後に話をした3月25日こと以外は。
  この日は卒業式で、私自身も市大での最後の行事となった。この日の前後をして未消化年休を取得し、大学には出ないようにしていたからである。卒業式には参加しなかったものの、シーガルホール1階の生協食堂で行われた卒業祝賀パーティーに顏を出し、卒業していくゼミ生たちと歓談した。ほどよく酔って、市大最後の時を過した。パーティーが終わり、帰路につこうとした時、学長が本館の中に入っていくのが見えた。今しかない。私はそう考え、走って彼を追いかけた。
 「小川学長」と呼びかけた。ちょうど学務課の前あたりだ。自分はこの大学を去る商学部の教員だと自己紹介し、最後に御挨拶をしたいと申し出た。学長は「名前はうかがっています。随分とゼミ生から慕われている先生だと聞いており、転出は残念です。」と答えた。私は挨拶にかこつけて何故、市大を辞めることを決心したのかその理由を学長に話した。そして私は学長選で小川氏に投票したこと、そしてその理由は小川氏が民主的なスタンスをもっとも堅持してくれそうだと思ったからだったこと、しかし全て裏切られたことを語った。そして、この改革の問題、とりわけ任期制の問題を学長に訴えた。その時の彼の回答は失望さすに値するものであった。「私は任期制については素人だが、運用次第でどうにでもなるでしょう。」
 私は怒りがこみあげてきた。全教員を不幸のどん底につき落す決定を下しておきながら、この時点になってもまだ「素人」と言い逃れする学長の無責任さにあきれはてた。本当に最高責任者なのであろうか。自らの下した決断が無知に基づいたことであったことを、さも我関せず風に答えられる学長のいいかげんさが許せなかった。
 もう一つ許せないことがあった。3月の市会での学長の答弁である。改革が嫌で大学を去る教員が多いと新聞に書かれているがどうかという議員の質問に、学長は「流出する教員と改革とは関係がない。」と断言し、改革が問題のないものであると強弁していた。私はこれが許せなかった。当然、学長は多くの教員が改革に嫌気を出して辞めていることを感じているはずだ。もしそうでないなら、本当に「裸の王様」であろう。だから市会の答弁は嘘であり、こんな嘘を堂々とつける人間がいやしくも学者をやっていたというのが、許せなかった。「私はこの大学が好きだったが、この改革のせいでやめていくのです。学長も良心が残っているのなら、市議会で嘘の答弁をするのは辞めてください。もし多くの教員が辞めていく理由がわからないというならはっきりと申しておきます。少くとも私はこの改革が嫌で辞めていくのです。」彼は神妙な顏をして聞いていたが、何も答えてはくれなかった。
教員組合の作成した2004年3月11日の市議会傍聴記録によると学長は田中議員の質問に対し、「「逃げ出す教員」についても、教員の移籍は、大学相互の人事交流・活発化、さまざまな理由によるもので、大学改革によるものとは考えていない」と答えている。ただ四月以降、少し変化した学長の発言をどこかで読んだ記憶がある。議会での答弁かインタビュー記事であったかも定かでないが、「改革のために、行く先のないにもかかわらず辞めた教員がいる」と述べていたと記憶している(ただ残念ながらソースを見つけることができない)。この程度の前言撤回で何がどうかわるというわけではないが、私に問いつめられて若干の良心を蘇えらせた見るべきか、それとも単なる裸の王様だったというべきか。それはわからない。
議会の答弁内容と異なる発言は横浜市大新聞(04年8月4日号)のインタビュー記事の中にあった。(05年3月12日追記)

 私は他の教員が通りかからないか、私たちの会話に気付き、加わってこないか、何人かが集まってくることで突発的に起きた団交のような事態にならないか、そう夢想していた。だが、駄目であった。知り合いの教員も通りかけたが、特に関心もなさそうに通りすぎていった。一人、話に加わってきたのは国際文化の先生だった。この先生は興奮しており、学長を罵倒していた。これでは議論にならない。そう思い、しばらくこの先生の怒りにつきあった後、これで失礼させてもらうとの挨拶をした。去り際に、学長は「吉田さんに言われたことは胸にしまって、考えておきます。」と言ったが全ては遅すぎた。私が話した程度のことさえ、学長は知らなかったとでも言うのだろうか。

III. 役人という病
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